気を失っていたわけでもないのに――気が付くと、瞬たちは 壁のこちら側の世界にいた。 屋敷の北側にある長い廊下の突き当たり。 壁の向こうに続く通路は もう閉じてしまったらしい。 もう一人のナターシャがいた痕跡は何もない。 それは、壁を越え、異世界の氷河と瞬とナターシャを見た者の記憶の中にだけ残っている。 特に ナーちゃんのパパとマーマに身体を使われてしまった氷河と瞬の中には、彼等の世界の記憶が置き土産のように――もしかしたら忠告として――残されていた。 「まさか、自分に自分の身体を乗っ取られるとは思わなかった」 氷河が そう言って薄く苦い笑いを作ったのは、異世界の氷河の残していった置き土産が あまりに悲痛なものだったから――だった。 『瞬なら、必ず 希望を見付けてくれる』と信じて 自らの命を捨てたロスト世界の氷河を幸福に思えるほど――幼いナターシャを残して死んでいった父親の悲痛は、我が子を奪われた母猿の故事そのままに、まさに断腸だった。 ナターシャのいるところで、氷河は それを語るわけにはいかなかったのである。 語れるわけがない。 『必ず帰ってくる』と約束して、ナターシャを城戸邸に残し 赴いた戦場。 そこで ナターシャの生きる世界を守るために戦い、命を落とし、ナターシャとの約束を守れなかった彼女のパパとマーマの記憶など。 パパとマーマの死を信じず、待って待って待ち続け、探して探して探し続け、心だけの存在になっても待ち続け、探し続け、ついには 次元も時間も超えてしまった幼い娘の 強い思いが、ついに親子の再会を実現してくれたことなど。 氷河が語らなくても、沙織や魔鈴は おおよそのところを察しているようだったが。 与えられた異世界の自分の記憶を語れないのは、瞬も同じ。 瞬にできたのは、 「ナーちゃんには、もう会えないノ?」 と尋ねてきたナターシャに、何とか 笑顔と呼べそうなものを作って、 「そうだね。ナーちゃんはナーちゃんのパパとマーマのところに帰っていったから」 と、答えることだけだった。 そして、 「ナーちゃんと ナーちゃんのパパとマーマが幸せなら、ナターシャ、もう会えなくても寂しくないヨ」 屈託のない優しい目で そう答えるナターシャのために、自分は決して死ぬまい、決して氷河を死なせるまいと 決意することだけだった。 地上の平和を守るために、常に死を覚悟して戦うのがアテナの聖闘士だと思っていた。 共にアテナの聖闘士。生きることはもちろん 死ぬことも共にできるのなら、それも幸福だと思っていた。 生きたい、生きていたい、生きていなければならないという思いを、これほど強く思ったことはない。 生きたい、生きていたい、生きていなければならないと、今、瞬と氷河は 心から思っていた。 小さくて可愛い、大切な家族のために。 Fin.
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