季節は まだ冬だったのか。もう春になっていたのか。 自分の周囲の季節すら、氷河は ほとんど意識していなかった。 母が氷の海に沈んでいったのは冬――真冬。 そこから 城戸邸にやってくるまで、自分がどこでどうしていたのか、どれほどの時間が経ったのかを、氷河は全く憶えていなかった。 憶えているのは――決して忘れぬように、自分に幾度も言い聞かせていたのは、 『マーマは 俺のせいで死んだ』 ということだけ。 『マーマは 俺のせいで死んだ』 『誰も マーマを助けてくれなかった』 『俺も助けられなかった』 『俺は無力で卑怯な人間だから、生きている価値はない』 それだけを、氷河は 繰り返し繰り返し 自分に言い聞かせていた。 かわいそうなマーマ。 不幸だったマーマ。 あの人が生きていた長く短い日々の中に、よかったこと、嬉しかったこと、楽しかったことが、ただの一つでもあっただろうか。 あんなに美しく優しいひとが、どんな力も価値もない小さな子供の母親になってしまったせいで、幸福になるはずだった人生を 不幸の色一色に塗り替えられてしまった。 彼女が不幸だったのに、彼女を不幸にした自分が幸福になれるわけがないし、なってはいけない。 そう、氷河は思っていた。 そう思っていれば、生きていることが楽だったのである。 期待や希望を抱かずにいられるから。 あるいは 氷河は、自分が不幸でいることが、生きている価値のない自分が生きていることの免罪符になると思っていたのかもしれなかった。 自分には生きている価値がないと思いながら、氷河は死ぬこともできずにいたのだから。 「僕、瞬だよ。君は氷河っていうんでしょ。はじめまして、よろしくね」 「ここは、親のない子供たちを集めて、女神様を守る人を育てる訓練所なんだよ。僕、よく知らないけど、大人の人たちが そう言ってた」 「訓練は大変だけど、ご飯は食べさせてもらえるし、ベッドも一人に一つあるんだよ。一つのお部屋に仲間が10人いるから、寂しくないよ」 「氷河は、僕と僕の兄さんと星矢や紫龍と おんなじ部屋だよ。氷河は 寝言、言う? 星矢は時々、『姉さん』って叫ぶんだよ。びっくりしないでね」 「朝ご飯を食べて 30分経ったら、毎日ジョギングだよ。そのあと、ジムでトレーニング。集合時間に遅れたら 怒られるから、気をつけてね」 「具合いが悪い時は、辰巳さんじゃなく、医務室の人に直接 言った方がいいよ。辰巳さんは、『気合いで治せ』しか言わないんだよ」 やたらと馴れ馴れしく誰かが自分に話しかけてきていることには気付いていたが、それが何者なのかを、氷河は ほとんど気に掛けていなかった。 マーマでないなら、誰でも同じ。 そのマーマは もういないのだから、氷河にとっては すべての人間が“どうでもいい人間”だったのだ。 氷河が初めて 瞬を瞬と意識したのは、彼が城戸邸にやってきてから1週間が過ぎた ある日の午後。 それまで 一生懸命 氷河に話しかけていた瞬が、ふいに黙ってしまったからだった。 音(声)は聞き流すことができるが、沈黙は聞き流せない。 氷河が顔を上げると、そこには、どこか何かが 不思議な瞬の笑顔(のようなもの)があった。 「氷河は、そんなに お母さんが好きだったの?」 瞬は、氷河が母を亡くしたばかりだということを知らされているようだった。 「お母さんって、優しくて綺麗なんだろうね。氷河のお母さんなら、すごくすごく綺麗だったんだろうね……」 氷河の答えを期待していない独り言のような呟き。 瞬の笑顔(のようなもの)が、母を知らない瞬の憧憬の表われだったことを 氷河が知ったのは、後日のこと。 氷河は その時は、笑顔で そんなことを言う瞬を、“少し足りない”子供なのだと思ったのである。 |