瞬が予定の時刻に帰ってこない。
どういうわけか、電話にも出ない。
仕事に向かわなければならない時刻が近付いていた氷河は、ナターシャを家に残し、瞬を掴まえるために病院に向かったのである。

光が丘病院の院庭。
真冬のこととて、とうに 日は暮れていたが、真の闇ができないほどの間隔で街灯がともっているので、そこにいる人間の姿が闇に紛れるほど暗いわけではない。
とはいえ、日の暮れた真冬の庭に散歩に出ている患者は一人もおらず、正門は 病院の職員通用門とは方向が逆なので、正門から入った院庭は人影も まばら。
“まばら”どころか、そこには 二人の人間しかいなかった。
氷河が小宇宙の気配を辿ってきた人と、その同伴者の二人だけ。

「なぜ そうなるんだ! 私はずっと一緒にいたいと―― 一生を共にしたいと思っている!」
まるで責めるように、相手の男が 瞬に大声をぶつける。
外気が冷たいので、声の熱さが 嫌になるほどはっきり わかった。
病院の庭の街灯は、普通の街路照明灯より 照射範囲が広く、光は淡い。
その光の中に立つ男の様子は、蘭子に知らされたRCホテルの男の様子と同じだった。
一緒にいる瞬が 清楚な少女に見えるのも、蘭子の証言と同じ。
おそらく同一人物なのだろう。
そして、その男は、蘭子から話を聞く前に 一度だけ氷河のバーにやってきたツイードの男だった。
氷河は彼の存在を知らされていなかったのに、彼は氷河の存在を知っていた――おそらく瞬から知らされていた――のだろう。

その男に怒鳴られた瞬が、まるで独り言のように、
「よかった」
と呟く。
瞬が それきり彼との会話を切り上げたのは、瞬が、帰宅してナターシャを受け取り、ナターシャのパパを仕事に送り出さなければならなかったからだったろう。
そのタイムリミットが近付いていたから。
瞬は、あとで連絡を入れると言って、ツイードの男と別れた。
氷河は、できれば その男の後をつけたかったのだが、ナターシャと仕事のことを考えると そうすることもできず、用いてはならない力を用いて、ナターシャの待つ家に一瞬で戻ったのである。

『よかった』
瞬の、ほんの短い声、言葉。
笑ってはいないのに、本当に嬉しそうで、温かく幸福そうな響き。
瞬は、あの男に、『一生を共にしたい』と言われて、『よかった』と思ったのだろうか。
あれは、そういう意味の『よかった』だったのか。
瞬の あんなふうな声を、自分は これまでに一度でも聞いたことがあったろうか――と、氷河は自問した。

もし、聞いたことがあったとしても、それは はるか昔のことである。
少なくとも、ナターシャと暮らすようになってからは 聞いたことのない響きの声。
それはそうである。
氷河が暮らしていたマンションに引っ越してきて ナターシャのマーマになってから、瞬は ナターシャの前では常に明るく笑っていた。
親が子供の前で暗い顔を見せるのは よろしくないと考えているのか、ナターシャのパパの無表情や不愛想を補うためなのか、瞬は ほとんど いつも笑顔。
時折 瞬自身が子供に戻ってしまったのではないかと思うほど、屈託のない笑顔。
そこに妖しい雰囲気や 甘く危険な空気の紛れ込む隙はない。

子供と共に生活するということは、そういうことだった。
生活の中心が子供になり、あらゆることで 子供が最優先。
当然、恋のための時間は制限されるのだ。

おかしな話である。
氷河は、そのことを 極めて不本意に思っていた。物足りなさを感じていた。
だが、ナターシャと一緒にいる瞬が いつも楽しそうで幸せそうだったから、氷河は 文句も言わずに我慢していたのである。
自分が文句を言える立場にないことは承知していたから。
だが――。

これは、瞬のために我慢したことへの報復なのだろうか。
『よかった』
思いがけず 天から降ってきた幸運に驚き、喜びの感情を隠そうとして隠しきれていないような瞬の声。その響き。
瞬が幸せで楽しいならと耐えてきたことの結果が これだというのなら、氷河は全く『よくなかった』。






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