学生結婚して20年近く。 二人は、分野は違うが それぞれ東証一部上場企業の部長クラス。 文句なしの富裕層。エリート同士のDINKs( Double Income No Kids )ということになっていた。表向きは。 しかし、夫妻は、子供を儲けたいと願っていて、10年もの長きに渡って不妊治療を続けていたのだ。 先日 ついに二人は40歳になり、それを機に 彼等は子供を持つことを諦め、不妊治療をやめた。 子供を持てなくても、二人で 二人の人生を充実させることはできる。 むしろ、子供は 二人の自由を阻害するだけのものかもしれない。 不妊治療を続けて、もし子供を授かったとしても、40代の父母に 十分な育児ができるだけの体力があると楽観視もできない。 そう慰め合って、納得し合い、不妊治療をやめた途端、松山夫人の妊娠がわかった――のだそうだった。 「子供のいない人生の素晴らしさを散々 語り合い、納得し合った直後です。夫は 仕事にやり甲斐を感じていて、有能で、精力的です。こういう言い方は何ですが、私たちは 多くの人が思い描くスタイリッシュなDINKsそのものの生活をしてきたので、こちらの気持ちを忖度せず 理屈通りに動くことをしない子供との暮らしに、夫が耐えられるとは思えず――私は 子供ができたことを夫に打ち明けられずにいたんです。私の中にも、子供を生み育てることを ためらう気持ちがあったから。そして、産むなと言われるのが恐かったから。でも、それなら いっそ 夫と別れて、私一人で子供を産み育てようと思う気持ちもあって、夫の気持ちどころか、自分がどうしたいのか、自分が何を望んでいるのかすら わからなくなって――」 「松山さんは、婦人科から総合診療科に まわされてきたんだよ。お話を伺ったら、お身体の問題でも、心理カウンセリングの問題でもなく、要するに、やり手でスタイリッシュでスマートで、到底 家庭的とは言えない ご夫君が、理屈通りに動かない子供に振り回されている場面が想像できないことが問題のようだったから……。だから、僕は、どんなに家庭的でない人でも、どんなにクールなエグゼクティブでも、子供嫌いで通っていたような人でも、実際に子供ができたら、めろめろになっちゃうっていう実例を、お二人に見せてあげようと思ったんだよ。氷河は、僕が そのための根回しをしている時の話を聞いて、失礼な勘繰りをしたの!」 「……」 事情は わかった。 すべてが誤解だったことは わかった。 妻が離婚して一人で子供を育てていることを考えているという事実を知らされたからこその、『なぜ そうなるんだ!』で、『私はずっと一緒にいたいと―― 一生を共にしたいと思っている!』だったことも、事情を知らされてみれば、すべてが綺麗に一本 筋が通っていた。 すべてが誤解だったことは、よくわかった。 だが、その誤解の原因は、やはり瞬に帰する――と、氷河は思ったのである。 「なぜ、俺に隠して――これは 俺に嘘をついて 隠れて会わなければならないような人でも事情でもないだろう!」 「これ以上ないくらいセンシティブな個人情報だよ。氷河に言えるわけがないでしょう。もっともらしい嘘を作るより、会ってないっていう嘘の方が 面倒がなくて、楽だったの!」 嘘をつき慣れていない瞬らしい考え方と対応である。 しかし、それなら それで、嘘をつかずに済ませるやり方は いくらでもあったはずだった。 「なら、個人を特定できないように言ってくれれば――」 「子供の出産を悩んでいる妊婦がいるなどという話を聞いて、ナターシャちゃんのパパがいい気持ちでいられるわけがありません。それは、氷河さんへの瞬先生の思い遣りです。悪いのは、煮え切らずに いつまでも迷っていた私なんです」 氷河の愚痴めいた呟きに 応じたのは、瞬ではなく松山夫人だったので、氷河は引き下がるしかなくなった。 黙り込んでしまった氷河に、瞬が、半分 怒り、半分 消沈している声と表情を向ける。 「だから、僕は、氷河とナターシャちゃんの幸せそうな“実例”を見たら、迷いなんて吹き飛ぶし、不安に打ち勝つこともできるだろうと思って、松山さんたちを ご招待したんだよ。それを滅茶苦茶にして……!」 事前に計画を打ち明けられていなかったとはいえ、誤解と勘繰りで、自分が瞬の計画を台無しにしたことだけは、氷河も認めざるを得なかった。 『すまん』と謝罪しようとした氷河を押しとどめたのは、それまで ほとんど口をきかずにいた松山夫妻の夫君の方だった。 「瞬先生、そんなことはありません。私は 素晴らしい実例を見せていただきました。お店では、非の打ちどころのないクールな美丈夫豹変ぶりには、心底 驚きましたが、それ以上に感動もしました。それも道理だ。ナターシャちゃんが とても優しい心を持っていて、とても可愛らしい」 「ええ、本当に」 「こんな子が欲しいな」 「ナターシャちゃんみたいに優しくて可愛い子と暮らしていたら、毎日が楽しくて、生きていることが嬉しいでしょうね」 「毎日 大騒ぎしながら 育てていきたい。二人でなら、大丈夫だと思うのです」 『毎日 こんな大騒ぎが起きていたら、アテナの聖闘士でも身がもたない』と言うわけにもいかず、松山夫妻を見詰める瞬の笑顔は、つい うっかり 少々 引きつった。 当初の予定とは全く違ってしまったが、ともあれ、目的は果たされたらしい。 松山夫妻は、迷いを消し去り、決断してくれたのだ。 面倒な大人の事情は わからないが、人の優しさや愛情は わかるナターシャが にこにこしているのだから、これは大団円なのだろう。 パパを大好きなナターシャに免じて、瞬は氷河の誤解と勘繰りに言及し責めるのはやめることにしたのである。 「ナターシャは いつも ちゃんとマーマの言うことをきく いい子だけど、パパは 時々 マーマの言いつけを忘れて、だめだめパパになるヨ!」 氷河の誤解と勘繰りへの報復は、無邪気な得意満面の笑顔で、瞬の代わりにナターシャがしてくれた。 松山夫妻が、これ以上ないほど微笑ましいものを見る目で氷河を見やり、その夫妻の視線にさらされた氷河が、これ以上ないほど きまりの悪い顔になる。 瞬には もう 報復の必要がなかった。 Fin.
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