愛の治国






そこは、愛が治めている国でした。
愛によって治められている世界です。
国の名をピュシスといいました。

ピュシスでは、愛がすべてを決めます。
愛することが何よりも大切で価値あること。
愛こそが何よりも強い力。
愛の心に恵まれている者こそが、その心の美しさに比例して気高く、愛の力に恵まれている者が その力に比例して強く、その当然の帰結として幸福になるべき。
ピュシスでは、“愛”が法律――唯一の法律でした。

とはいえ、愛の質、愛の強弱、愛の大小、愛の長短、愛の美醜を見極めることは、とても困難。
たとえば、愛と欲はとても似ていて――ほとんど同じと言っていいほど似ていて、その見極めは大変難しいのです。
ですが まあ、基本的に、自分を愛しすぎている人の心は、ピュシスでは 愛に満ちた心とは認められない――と思っていれば、まず間違いはないでしょう。
自分可愛さの利己主義は駄目ということです。
自分を全く愛せないのも いけないんですけどね。
愛ある心と愛無き心は別物ですが、愛ある心と愛ならぬ心を分けるものは バランス、と言っていいかもしれません。

もちろん、愛の治国ピュシスにも、愛を軽んじる人間はいます。
『愛なんて、くだらない』『そんなものがあっても、何にもならない』『愛で腹が膨れるわけじゃない』と考える人たちです。
隣人への愛、隣人からの愛どころか、自然からの愛も 神の愛も信じない人たち。
愛に価値を置かない人には、自然も神も恵みを垂れません。
彼等は、最も価値あるものを 自ら放棄している人たち。
そんな人たちに何を与えることができるでしょう。
何を与えられたところで、そこに愛を感じない人は、与えられたものに喜びを感じることはないでしょう。
喜ばれないものを、あえて与える人はいません。
喜ばれないものを、あえて与える神もいません。
喜ばれないものを、あえて与えたりしたら、それは普通に嫌がらせですから。

愛に価値を置かない人々は、あらゆる恵みを拒む人々。
当然、 愛の力も持たない人々ですから、ピュシスの社会では最下層に属することになります。
ピュシスで 最も低い身分の人たちです。
愛の力を信じていない彼等は、毎日 とても寂しく貧しく悲しい日々を送っています。

ピュシスにおける愛は、世襲の君主制社会や貴族制社会における血筋や家門のようなもの、資本主義社会におけるお金のようなもの、戦場での武力や腕力のようなものだと思ってください。
ピュシスのいいところは、愛の価値を認め、愛の力を信じ、愛を実践すれば、すぐに上流階級、富裕層に移動することができるところです。
ピュシスでは、身分間移動が極めて容易。大変 流動的なのです。
もっとも、“高い地位に就きたい”という理由で、人は自分の中に愛を育むことはできませんけれどね。
それは、“愛”とは言わないのです。
努力で愛は生まれない。
ピュシスの身分制度は、極めて特殊でした。
個々人の心が清らかな愛に満ちているかどうか。
それは、人ならぬ自然の愛、天なる愛、人の愛より高次の愛の意思が決め、人々に 示しました。

人ならぬ自然の愛、天なる愛、人の愛より高次の愛の意思。
それを“神”と呼ぶ人もいます。






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