「氷河、すごいね。よそのおうちのマーマと赤ちゃんを守ったんだ。すごい」
もちろん、瞬は氷河を褒めたつもりだった。
氷河を励ましたつもりだった。
氷河は素晴らしいことを やり遂げた。
氷河に救われた あの人は、心から氷河に感謝するだろう。
氷河は、命を二つも救ったのだ――と。
瞬も嬉しかった。
瞬は嬉しかった。
とても、嬉しかったのに。

(俺のマーマは助けられなかったけど……)
氷河が声に出さなかった思いが、瞬の心には ちゃんと聞こえてしまった――響いてきてしまった――のだ。
氷河が助けたかったのは、よそのマーマではない。
氷河が本当に助けたかったのは、彼のたった一人の大切なマーマだったのだ。
瞬は、自分の浅慮を悔やんで、きつく唇を噛みしめることになった。
だが。

(俺のマーマは助けられなかったけど……)
その切ない思いのあとに、嬉しそうでも得意そうでもなかったが、失望や無念の響きとは違う、別の力を帯びた強い意思が、瞬の許に届けられたのだ。
氷河は、
「うん……」
氷河は怒った様子も傷付いた様子も見せず、瞬に頷き返してくれた。
ほとんど無表情。
だが、彼は瞬に向かって笑った。
間違いなく、確かに明るく笑った。

氷河の金髪が、窓からの光を受けて、きらきらと輝く。
綺麗で――だが、瞬が ついぽかんとしてしまったのは、氷河の金色の髪や青い瞳の美しさに 目を奪われたからではなかった。
それもあったのだが、それ以上に、瞬は氷河の感触が これまでと全く違うことに 戸惑いを覚えたのだ。
声も、眼差しも、態度も、心も――何もかもが、これまでと全く違う。
声も、眼差しも、態度も、心も――氷河が 急に瞬に近付いてきたのだ。

それは親しみやすさ。それとも 好意と呼ぶべきものなのだろうか。
星矢の物怖じのなさ、人懐こさとは違う、乱暴と言っていいほど急激に近付いてくる感じ。
瞬は、氷河の変化に戸惑った。
戸惑いつつ、兄が 自分たちを睨んでいることに気付いて、慌てて ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「ぼ……僕、よく わからないけど、氷河は、たくさんの人に大切に思われて、守られているような気がするんだ。僕、さっきまで、そんな夢を見てたの。だから、氷河は、その人たちのためにも元気にならなきゃならないと思う」
「おまえは 何を言っているんだ」
瞬の夢の報告に、氷河が眉根を寄せる。
「うん。ごめんね。僕、何を言ってるのかな……」

確かに、それは奇妙な話だった。
氷河の身を案じる人たちが 瞬の夢に出てくるなどということは。
だが、いろんな人たちが、氷河が不幸になることを阻止しようとしているのは事実だと思う。
“事実だと思う”ことを 言葉にすると、変なことを言う奴だと訝られるような気がして、それ以上 夢の話をするのを、瞬は やめたのである――瞬がやめた話の続きを、なんと氷河が引き受けてくれた。

「……守られてるのは、おまえの方なんじゃないかな? おまえが堀に飛び込んだ時、俺、誰かに、おまえを助けろって言われたんだ。近くに人はいなかったのに、はっきり聞こえた。おまえを助けてから、ボートをボート乗り場の方に押してた時は、よくやったって、誰かが俺を褒めてくれた。なんか、いろんな人がさ、おまえを大切にしろって、俺に言ったんだ。あれは神様だったのかなあ。マーマと 小さな女の子みたいな 二つの声が――その声がさ、おまえといると、俺に いいことがあるって、俺が幸せになれるって言うんだ」
「マーマと小さな女の子……?」
その小さな女の子というのは、もしかしたら ナターシャなのではないだろうか。
もしかしたら――いや、きっと。

「うん! うん、僕も、そんな夢を見たの。僕は、氷河とずっと一緒にいられるんだって。氷河を守ってって――ナターシャちゃんっていう小さな女の子と……氷河のマーマみたいな大人の女の人が、僕に言ったの」
「……ナターシャ?」
その名を聞いて、氷河は 驚いたように瞳を見開いた。
その時には、瞬は“ナターシャ”という名が氷河にとって どういう意味を持つ名なのかを知らなかったのだが、氷河は その名で、彼の見た夢を ただの夢ではないと、確信したようだった。

「マーマがそう言ってたんだから、俺は 言われた通りにしなきゃならない。俺は、瞬と いつも一緒にいて、幸せにならなきゃならない」
氷河の独り言めいた呟き。
低く小さな声だったが、瞬には はっきり聞き取れた。
それは、氷河が、マーマがいなくても マーマのいない生を生きていく決意をしてくれたということ。
そして、もう絶対に処分されないということである。

氷河の決意が嬉しくて、瞬は明るく笑った。
氷河が、笑顔の瞬を、目を細めて見詰め返す。
そして、そんな二人を――主に氷河を―― 瞬の兄が 噴火直前の活火山のような目で睨んでいた。
氷河の これからの長い人生が 幸せなものになるのかどうか。
もしかすると、二人のナターシャも、どこか ここではない場所で、氷河の行く手に待ち受ける多難を確信し、不安を覚えていたかもしれなかった。






Fin.






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