氷河が、その小さな国を滅ぼしたのには、やむにやまれぬ事情があった。 今となっては、それが本当に やむにやまれぬ事情だったのか、本当に その必要があったのか、やりようは 他にいくらでもあったのではないかと悩むばかりなのだが、その時には『こうするしかない』という思いで、氷河は動いていたのだ。 氷河が生まれた北の国は、大きな国だった。 国土が広いという意味で、大国だった。 だが、その地味は貧しく、農作物が豊かな実りを結ぶことはない。 国の南の端の一部地域で、寒さに強い芋類と豆類、ライ麦が実る程度。 国土の半分が ほぼ1年中 雪と氷に覆われていて、国民の家を しばしば訪ねてくる親密な友の名は“飢餓”。 広い国土が生むものは鉄ばかり。 ただし、有り余る鉄で農機具を作っても、北の国の内に それらの活躍の場は ほとんどない。 そういう国だった。 北の国は、また、戦に負けたことのない国だった。 鉄で作る武器を積極的に有効利用するわけではなく、雪と氷――厳しい寒さが不落の砦となって、他国の侵略から 北の国を守ってくれているのだ。 1年中 冬の国。 北の国の侵略を企む国や軍は絶えて久しいが、過去に その暴挙に挑んだ侵略軍は すべて、北の国の兵士や兵器ではなく、北の国の雪と氷によって滅ぼされた――勝手に自滅していった。 北の国の民は、鉄の農機具を作り、農機具が必要な国に それらを売って、外国の穀物を買っていた。 父王の死で、氷河が北の国の王位に就いたのは、彼が5歳の時。 幼い氷河に王として国を治めることができるわけもなく、未亡人となった母君――氷河の母后にして王太后――が摂政に立ち、十数年。 国の運営の実際のあれこれは、父王が健在だった頃から続く王家の忠実な家臣団が行ない、彼等と王太后は、氷河の成人と親政開始の時を待っていた。 前王の崩御直後、一度だけ、幼少の王と女性の摂政を侮って、北の国の侵略を試みる国が現れたが、それらの国の軍隊は北の国の雪と氷に撃退され――勝手に自滅して――北の国の独立と氷河の王位が揺らぐことはなかった。 ちなみに、皆が力を合わせ支え合わなければ飢えて死ぬことを知っている北の国に 内乱の歴史はない。 ここ5年ほど、広範囲の旱魃や洪水等、深刻な自然災害がなかったため、農作物の実りは豊かだった。 もちろん、“実りは豊か”というのは、北の国以外の国でのことである。 北の国は もともと豊作という事柄に無縁なのだ。 農作物の実りが極少で 飢餓の心配と常に隣り合わせといっても、他国で農作物が余っている時には、北の国の民も飢えることはない。 麦、米、加工した乾物等、長期保存が可能なものは、国も各町村も各家庭でも、それなりに備蓄してある。 ひとたび飢饉が起こると、農作物を中心にした食料品が 新規に北の国に入ってこなくなるというだけのことなのだ。 “ただ それだけのこと”と言えるほど、ここ数年の農作物の実りは(他国の実りは)豊かだった。 そんな中で、氷河は成人し、親政を開始することになった。 時期的状況的に、幸先のいい船出と言えただろう。 5歳以下の子供は飢えを知らない幸福な時期。 飢える心配がなければ、北の国に限らず、人は心に ゆとりを持つことができ 荒むことはないので、地上世界には平和が保たれていた。 5歳の即位から13年。 成人して、親政を開始。 予定通りである。 氷河の母は夫を亡くした女の身で、摂政役を13年間、破綻なく勤め上げた。 13年もの長きに渡って、予定通りに 事を運ぶことが どれほど困難なことか。 どんな些細なことでも、計画を立て、その計画を成し遂げた経験を持つ者なら わかるだろう。 それは偉業だった。 十分に偉業と呼べること。 氷河は、摂政であった母に、尋常でない感謝と尊敬と、そして深い愛情を抱いていた。 北の国は、農作物や その加工品等の食料を他の国から買わなければならなかったが、他国で豊作が続けば、農作物の値段は高騰することもなく、鉄を売って得られる利益は膨大。 大国である北の国の王宮は華麗壮麗だった。 氷河が成人した年の春分の日、その王宮で、氷河の母君が摂政の地位をおり、親政開始の儀式が行われた。 我が子の成人、親政開始の日を ついに迎えた喜びと、摂政としての務めを果たし終えた安堵のためか、その日、王太后は 事のほか、優しげで幸せそうだった。 親政開始の儀式といっても、実情は 新王が摂政だった母への感謝を示し、13年間の苦労を ねぎらう儀式。 氷河は 母のために、最上等の絹で作られた美しいドレスを贈っていた。 そして、母を飾る大粒の宝石。 氷河の母は大変に美しい女性だった。 息子が成人する歳だというのに、彼女は若く美しく、しかも心優しく聡明にして賢明。 彼女は、感謝の気持ちを示すために氷河が贈った宝石を見詰めながら、 「これで麦がどれほど買えるかしら」 と、いかにも長年 摂政を務めた人物らしいことを、摂政としてでなく、我が子の浪費を案じて 口にするような女性だった。 それでも彼女が微笑しながら 息子からの贈り物を受け取ってくれたのは、ここ数年続いた豊作で、北の国の食糧庫には 備蓄しようにも その場所もないほど十二分に食料の備蓄があったからだったろう。 「南方の国では、この宝石があれば、10棟の食糧庫をいっぱいにするほどの穀物や 城を埋め尽くすほどの花が手に入る。同じ宝石で、我が国では食糧庫半分の穀物と、花なら2輪も手に入らない。ものの価値というものは、本当に奇妙なものね」 彼女は、そう言って笑った。 北の国では、生花は手に入らない。 絶対に無理なわけではないのだが、生花を手許に置くことは 途轍もない贅沢だった。 王太后は、決してそんな贅沢を望んだわけではなく、我が子が 物の価値を見誤ることのないよう、氷河を教え諭しただけだったろう。 だが、氷河は、自分をずっと慈しみ育て、自分が成人するまで この国を守っていてくれた大切な母を、容易に手に入る宝石ではなく、北の国では入手の難しい花で飾ってやりたいと思ったのである。 冷たい輝きを放つ宝石より、やわらかく温かい花の方が、彼女を飾るにふさわしいものだと、氷河は思ったのだ。 だが、1年中 雪と氷に覆われている北の国では 花は咲かない。 氷河は 見たことがないが、国の南端で 地べたを這うように咲く野草があるきり。 北の国では、生花は宝石の何倍も価値あるものだった――真に価値あるものなのかどうかは さておき、高価な贅沢品だった。 他国から運んできても、北の国の冷たい外気に触れると、花は霜に覆われ すぐに死んでしまう。 火と共に運び、暖炉のある部屋に飾ったとしても、生きている花は数日で しおれてしまう。 北の国の北の都に生まれ育った王太后は、花を造花でしか見たことがなかった。 だから。 親政開始の祝いの儀式の最中に、氷河は胸中で決意したのである。 我が子に『立派な王になってほしい』と願う母に――『立派な王になってほしい』と、それだけを願う無欲な母に――花を贈ることを。 新鮮な露を含み、美しく咲く生花を贈ることを。 |