瞬は自室で、質素な白木のサロンチェアに ぼんやりと腰を下ろし――悲しむことさえ忘れているように、寂しそうに ぼんやりと座って、ベランダの向こうにあるモイカ運河を眺めていました。
春なのに、モイカ運河には まだ氷の塊が浮かんでいます。
なぜ 瞬がそんなふうなのか――瞬の性別すら見誤っていた氷河に わかるはずもなく、かといって、自分の誤解の事情を説明し、言い訳をして、『ごめんなさい』を言うこともできず。
氷河は、いつも通りに、
「今日は何が悲しいんだ?」
と、瞬に尋ねたのです。

瞬からは、
「何も」
という答えが返ってきました。
氷河が恐れていた『もう来ないでと言ったのに』という言葉はありませんでした。
それで、氷河は少し 希望を持つことができたのです。
もしかしたら瞬は、『もう来ないで』と言うこともできないくらい、氷河と会えないことを寂しく感じてくれているのではないかと。
悲しむことを忘れるくらい、瞬が自分の不在を寂しく思ってくれているのではないかと。

だって、そうでしょう。
初めて会った時から、二人は ずっと二人だったのです。
長い時間をかけて、一緒にいるのが当たりまえのことになってしまった二人に、お姫様じゃないとか、ソドムの罪だとか、そんなことは どうだっていいこと。
ただ、一緒にいたい。
それだけなのです。
少なくとも、氷河は そうでした。

「俺が、俺の命より大事だと思っているお姫様というのは、おまえだ」
氷河は、瞬に、それだけを言いました。
きっと 他に言わなければならないことは たくさんあるのだろうと思ったのですけれど、それだけ。
「おまえの悲しみを消して、おまえを幸せにすることが、俺の生き甲斐だ」
と、それだけ。

「僕は ずっと、いつも幸せだったの。氷河が側にいてくれたから」
瞬は――瞬にもきっと、言いたいことや確かめたいことは たくさんあったのでしょうけれど、瞬の言葉も それだけでした。
フレア姫のことには何も触れず。

おそらく、それでよかったのでしょう。
それでよかったのでしょう、氷河と瞬には。

「おまえはいつも泣いていて……俺は おまえを幸せにできていないんだと、おまえの涙を見るたびに、自分を歯痒く思っていた」
「でも、僕は、氷河が側にいてくれたから、いつも幸せだったの」
二人は もうずっと長いこと、小さな子供だった頃から いつでもずっと 二人でしたから、それですべてが理解できました。


この世界には、悲しいことばかり。
世界は、悲しいことで満ちています。
けれど、この世界をちゃんと見てみると、悲しみと同じくらい――もしかしたら、それ以上に、幸せと喜びもあるんですよ。
氷河と瞬は、二人の人生を幸せに生き抜きました。






Fin.






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