寝台の上に上体を起こし、彼女は その白い指で 自身の唇に触れた。 氷河を混乱させた瞳が、そこに氷河を映したまま、氷河に尋ねてくる。 「どうして口づけなんて」 「眠りから目覚めない お姫様を目覚めさせるのは、真実の愛の口づけと相場が決まっているだろう」 『誰が そんな説を唱え始めたのかは知らないが』とは、もちろん言わない。 言わなかったが、その説は正しいのだろうと、氷河は思った。 実際に彼女は、氷河のキスに応えて目覚めてくれたのだ。 その事実が真実でないとは考えにくい。 目の前で実際に起きたことを疑うものはいない。 尤も、真実の愛の口づけで目覚めたにしては、彼女の感動は薄かったが。 そして、彼女自身は、自分が真実の愛の口づけで目覚めたとは考えておらず、しかも、自分の目覚めを喜んでいるようには見えなかった。 「……今はいつですか。それが、今の時代のルールなんですか? 『目覚めよ』と言ってくだされば、それだけで目覚めたのに。目覚めるべきではなかったけれど……目覚めたくはなかったけれど……目覚めるしかなかったけれど……」 まっすぐ彼女に向けられている氷河の視線に、彼女は困惑したようだった。 逃げるように、目を脇に逸らし、最後に彼女は顔と瞼を伏せてしまった。 どうやら、自分は彼女が望んでいなかったことをしてしまったらしい。 彼女は目覚めたくなかったのだ。 では、感謝の言葉はもちろん、好意の感情も、彼女から得ることは不可能だろうか? 少し――かなり気落ちして、氷河は彼女に尋ね、求めたのである。 「その指輪は、冥王の指輪なのか? ならば、できれば、俺に渡してほしいんだが」 と。 彼女の笑顔が手に入らないなら、せめて指輪だけでも。 この山の頂に辿り着き、彼女を目覚めた者の要求として、それは極めて妥当なものだし、当然の権利でもあるだろうと考え、氷河は冥王の指輪の受け渡しを、彼女に求めた。 彼女が、ぶかぶかの右手の指輪を、もう一方の手で、抜け落ちないように押さえる。 「確かに、これは、冥府の王ハーデスの黄金から作られた冥府の王の指輪です。でも……やめましょう。僕が眠りに就いてから、どれだけの時間が過ぎたのかは わかりませんが、どれだけ長い時が流れても、人間が愛に価値を置かなくなる時が来るとは思えない。あなたの瞳の中には愛の光がある。あなたは、この指輪がどういうものなのか、わかっているんですか? この指輪の主になる者は、世界を支配する力を得るだけでは済まないんですよ?」 彼女が眠りに就いたのは、どう考えても、昨晩のことではないだろう。 彼女は、年単位で――もしかしたら百年単位、千年単位での長い眠りに就いていたに違いなかった。 目覚めたばかりなのに、寝ぼけている様子もなく、舌のまわりがいい。 次から次へと淀みなく言葉が出てくる彼女は、頭の回転が速いからだろう。 こういう人間は、ゆっくり話し始めた時にこそ、慎重に対応しなければならない。 もし彼女の瞳が これほど澄んでいなかったら、氷河は彼女を“決して油断してはならない相手”と見なし、対峙の際には 心身をもっと ぴりぴりと緊張させていただろう。 「よくは知らない」 氷河が そう答えたのは、その指輪がどんなものなのかを、実際に知らなかったから。 だが、それ以上に、この美少女の姿を見、声を聞いていたかったから。 指輪ではなく、指輪を嵌めて眠りに就いていた人のことを知りたかったからだった。 美しい少女も、清らかな少女も、優しい少女も、賢い少女も、世の中には存在する。 出会ったこともある。 だが、それら全部を備えている人間には、これまで 氷河は出会ったことがなかった。 特に、賢さと清らかさの同居は珍しい。 彼女は稀有な存在だった。 「俺は、冥王の指輪を探して ここに来たんだが、おまえを目覚めさせたのは、指輪を手に入れるためではなく、おまえの目を見たかったからだ。予想以上に綺麗な目だ。目覚めさせてよかった」 「え……あ……あの……」 「冥王の指輪を嵌めて、こんなところに眠っていた おまえは何者なんだ? 月の女神セレネが、エンデュミオンの若さと美しさを惜しんで、永遠の眠りに就かせた話は知っているが、冥府の王が美少女を眠らせたなんて話は聞いたことがない」 「僕も、聞いたことはありません。ハーデスはそんなことしません。僕は男子です!」 「……」 花と見紛う姿。 表情も声も口調も、花を揺らす優しい微風のようだったのに、それが一瞬で つむじ風に変わる。 手足を隠していない薄絹の短衣一枚だけを身に着けている姿を見た上で 誤認した自分が悪いのだろうとは思ったが、自分の指にある指輪のことを忘れたかのように、拳を二つ作って力説する美少女 改め 美少年に、氷河は つい吹き出してしまいそうになった。 もちろん、男子のそれとは思えない彼の可愛らしさに、かろうじて吹き出さずに済んだのは、彼の名誉のためには幸いなことだったろう。 氷河にも よいことだった。 慌てて唇を引き結び、ぎりぎりのところで踏みとどまったおかげで、氷河は、間違いなく彼が好意を抱いている人に嫌われずに済んだのだから。 男子と認識して 改めて その姿を見て見れば、彼は、極めて特異な空気をまとった、信じられないほど美しい少年だった。 氷河は、正しい認識のもとで、正しく感嘆の溜め息を洩らすことになったのである。 「男か。美しいな」 「あなたに そんなことを言われても、馬鹿にされているようにしか聞こえません」 雪の中に咲く純白の待雪草が 小さな鈴のような花を揺らすように、彼は つんと横を向いてしまった。 可愛い。 自分の容姿を十人並みと へりくだるつもりはない。 あの美しかった母の血を受け継いでいるのだ。 自分が醜いはずがないと、氷河は思っていたし、他人の評価もそうだった。 だが、この清楚な少年と自分とでは、比べることが不可能なほど、容貌の種類が違っていた。 白い花と 金色の狼。 その二つを並べて、どちらが美しいか決めろと言われても、それは花屋にも猟師にも決めることはできない。 プライドを傷付けられて(?)、つんとしている横顔が また少女めいて可愛らしい。 氷河が笑うと、美少女は――彼も、いつまでも意地を張って横を向いていられなくなったらしく、顔の向きを元に戻し、そして 氷河に初めて微笑を見せてくれた。 “可憐”や“清楚”の本質に姿を与えたらこうなる――と、プラトンが言い出しそうな、はにかみを含んだ笑顔。 可憐な少女にしか見えない彼(!)が、世界のすべてを支配する力を持つ者――つまり、この地上で最も強大な力を持つ者――だと言われても、氷河には到底 信じられなかった。 信じられるわけがない。 冥王の指輪を持つ者は、すべての愛を拒み 拒まれることで、世界を支配する力を得る――と、氷河は聞いていたのだ。 信じられるわけがない。 |