知恵と戦いの女神アテナ。 不死の神の年齢など考えるのも無意味だろうが、氷河が想像していた女神の姿より、彼女は ずっと若く見えた。 彼女が 若すぎるほど若く見えるのは、オリュンポス神族の中で 最も卓越した神でありながら、重厚さが全くなく、しかも やたらと楽しそうに笑っているせいでもあったろう。 笑いながら、彼女は、持参のサンダルを素足の瞬に手渡し、その唐突な登場を二人に詫びてきた。 「ごめんなさいね。本当は、氷河が あなたを目覚めさせた時には、もうここに来ていたのだけど、あなたと氷河の やりとりが面白くて、つい声を掛けそびれてしまったの。氷河の発想は なかなかのものよ。知恵の女神である私を唸らせるなんて、彼は ただ者ではないわね。ハーデスの指輪を 自我の確立されていない赤ちゃんに。素晴らしいわ。ハーデスの怒り狂う顔が 容易に想像できるわ」 氷河は、少しも褒められた気がしなかった。 そもそもアテナとハーデスは瞬を長い眠りに就かせた極悪人。 その一柱が この場に現れた目的は、氷河の恋路を邪魔すること以外に考えられない。 氷河は身構え、そして、知恵の女神を睨みつけた。 瞬は 氷河の無作法に慌てたが、アテナは 身の程知らずの人間に 微笑で答えてきた。 「そんな恐い顔をしないで。私は あなたの味方よ。氷河」 そんなことを言われても信じられない。 だが、本当に味方だった時のために、憎まれ口は控えることにしよう。 そう考えるだけの冷静さは、氷河にもあった。 アテナが、偉大な神にしては親しみやすく、身ひとつしか持たない無力な人間に、少しも偉ぶったところがなかったので、氷河としても 彼女に敵愾心を抱きにくかったのだ。 実際、彼女は 氷河の味方だった。 「瞬。私は、ずっと あなたの目覚めを待っていたのよ。もちろん、あなたを冥王の指輪から解放するために。まさか、あなたを最初に目覚めさせる人間の出現が、こんな時間が かかるとは思っていなかった。あなたを目覚めさせられるのは 生きている人間だけだったから、私は待つことしかできなくて――でも、今になって わかったわ。あなたは氷河が来てくれるのを待っていたのね。何百年も――千年になんなんとする長い間、あなたは氷河を待っていた」 アテナは俺の味方だ。 確信するなり、氷河は知恵と戦いの女神への畏敬の念を、極めて迅速に 自分の胸の内に構築したのである。 肝心の瞬は、自分がアテナに何を言われているのか わかっていないようだったが、普通の人間である瞬の言葉と、知恵の女神の言葉を比べれば、(この場合は)知恵の女神の方に信憑性がある(と、氷河は思った)。 「ハーデスとの約定で、あなたを眠りに就かせてから、私はすぐに あなたをハーデスの指輪から解放する対応策を探したの。そして、時の神クロノスに、“永遠に3日が過ぎない場所”で、冥王の指輪を預かってもらえることになった。これで、世界の命運をあなた一人の肩に負わせずに済むと喜んで、私は あなたの目覚めを待っていたのに――」 「俺が、瞬を待たせすぎたのか」 「ほんと、待たせすぎ。でも、瞬は待ちたかったんでしょう。冥王の指輪を赤ちゃんの指に嵌めるなんて、奇抜な発想のできる人を。二人は きっと一生を 楽しく暮らせるわね」 「そのつもりだ」 「ええ。では、冥王の指輪は、私がクロノスの許に運ぶわ。瞬と氷河は、一度、聖域にいらっしゃい。アテナイの西に、私の地上での直轄地があるの。もちろん、ずっと そこにいる必要はないけれど、もし望むなら、衣食住の保障と――そして、とてもやり甲斐のある 仕事も世話するわ」 「あ……アテナ……」 瞬にしてみれば、まさに 急転直下の展開。 千年の眠りが 瞬きの間に終わってしまったようなものだった。 しかも、瞬から冥王の指輪を預かったアテナは、さっさと その場から姿を消し、地の山の頂の神殿には、瞬の他には満面の笑みを浮かべた男が一人いるきりである。 瞬は、今の世のことを何も知らず、少なくとも この神殿を出てから当面の間は 氷河に頼る以外に道はない。 「知恵の女神アテナ。さすがに頭がいい」 「え……ええ。それは もちろん」 氷河に頷きながら、瞬は 疑わしげである。 「俺と おまえは運命で結びつけられているんだ。アテナのお墨付きだ」 「それとこれとは――」 「すぐ山を下りて、聖域に向かうか? それとも まず、ここで 身体の相性を試してから?」 にこにこしながら 両腕を瞬の方に差しのべてきた氷河の脇腹に、瞬は 強烈な回し蹴りをお見舞いした。 「ぐ」 その場にうずくまった氷河の脇で、瞬がアテナから手渡されたサンダルを履き、一人で、地の山の神殿を出る。 千年振りの人間界に記す、最初の一歩。 あまり不安はなかった。 回し蹴りの衝撃から立ち直った氷河が、すぐに自分を追いかけてきたのがわかったから。 Fin.
|