敬愛する師を失った。 その一事だけで、氷河は彼を他人と思えなくなってしまったのだろう。 しかも、師が弟子である自分のために命を落としたとなれば、この青少年は ほとんど氷河の分身である。 そんな氷河にも、自分の師に対する周囲の評価を上げるために 先達を“邪魔”と言い張る青少年の論理は理解できなかった――おそらく。 それ以前に、非論理的な青少年の後悔が、氷河には共感できないものだったに違いない。 彼の母、彼の師、彼の娘。 氷河は、彼の大切な人を幾人も失ってきたし、彼等の死に関して 自分には重い責任があると考えている。 しかし、氷河は、彼の大切な人たちが生きていた時、常に彼にできる最大の力を尽くし、最高の誠意をもって、彼等を愛した。 愛し足りなかったとか、もっと素直に誠実に接すればよかったとか、そういう後悔とは、氷河は無縁なのだ。 失って初めて、失ったものの価値が わかる人間は愚かである。 そして、不幸であり、悲しくもある。 失ったものの価値、それが どれほど大切なものなのか。 そんなことは、失う前にわかるはずなのだ。 人間には、想像力というのがあるのだから。 その力を使えば 幼い子供にもわかるはずのことを、人は 時に わかろうとしない。 公園で出会った あの母親も、娘を失った父の話を聞いて初めて、それが我が身に降りかかってきた時のことを想像(し、態度を改め)た。 想像力はあるのに、彼女は その力を行使せず、その時々の感情だけを 自身の行動の舵取りに用いていたのだ。 彼女が この青少年と違っていたのは、彼女の大切な娘が生きているうちに、彼女が氷河に会えたこと。 その出会いがなかったら、彼女の運命は、この青少年のそれと重なるものになっていたかもしれない。 氷河は、わかっている。 氷河は、彼の大切な人たちの価値を 軽視する愚を犯すことはない。 だから、彼は、常に彼の大切な者たちを誠心誠意 愛する。 氷河は、自分の大切な者たちを 愛し足りなかったと後悔することは 決してない、愛の天才だった。 「後悔しているのか」 氷河には無縁な後悔。 後悔しても、どうにもならないこと。 取り返しのつかない過ちを犯した青少年を見おろす氷河の瞳は 冷たく青く、だが、優しかった。 星矢や紫龍は、普遍性を伴っていないがゆえに“甘さ”だという氷河のそれを、瞬は やはり優しさだと思う。 氷河は、身内には甘い(優しい)のだ。 氷河は、取り返しのつかない過ちを犯した愚かな青少年を、他人として突き放してしまわない寛容と包容力を持っている。 わかる人間にしか わからない優しさを含んだ 冷ややかな声で、氷河は 青少年に、 「おまえの師を歴代最強最高の師にしたかったら、おまえ自身が歴代最強最高の聖闘士になるしかあるまい」 と言った。 氷河の優しさを感じ取れない青少年が、氷河に牙を剥く。 「あんた、なに言ってんだ? 俺なんかどうでもいいんだよ。俺は、俺の先生を――」 失ってからでは、遅すぎる。 遅すぎると わかっていても、後悔し続け、愛し続けずにいられない青少年を、氷河は愛する。 氷河は、愛の後悔にだけは縁がない。 「おまえ自身が強くなり、優れた人間、卓越した聖闘士になり、その上で『俺の師は最高だった』と言うしかない」 「……」 「おまえが強く偉大な聖闘士であればあるほど、そんな おまえを育てあげた おまえの師は、おまえより更に偉大な聖闘士として、皆に称賛されることになるだろう」 「あ……」 青少年の反応が 少し鈍かったのは、彼の頭の回転が遅いからではなく、彼の理解力に問題があるからでもなく、ただの助平な甘ったれと思っていた人物に、思いがけず得心できる――しかも優しい――解決策を手渡されて、そのことに驚いたせいだったろう。 氷河の言を理解すると、反抗的だった青少年の態度からは 目に見えて刺々しさが消えていった。 代わりに、小宇宙が燃え、大きく膨らんでくる。 まだ青銅聖闘士にもなれていないと言っていたが、青少年の師は、彼の可能性を感じていたのだろう。 それが如実にわかる小宇宙だった。 小宇宙で、彼が 氷河に敬意と、そして 愛情を抱いたことがわかる。 「歴代最強最高は 伊達じゃないということか。助言に従う――従います。ありがとう」 なぜか瞬に向かって礼を言うのは、やはり氷河に愛想がなくて恐いせいなのか。 青少年に 微笑を返しながら、瞬は、彼が どんな聖闘士になるのかを確かめることのできない、青少年にとっては過去の世界に生きている自分を、少し残念に思ったのだった。 愛し足りなかったという後悔にだけは、縁のない氷河。 青少年が消えた 自分たちの世界、自分たちの“今”の中で、瞬は、氷河の強さを信じられるようになっている自分に気付いた。 愛し足りなかったという後悔にだけは、縁のない氷河。 ならば、氷河ほど 迷いに縁がなく 強い人間は、他にいないだろう。 「氷河って、意外と いい先生になれるかもしれないね」 決して 後悔しない男にそう言って、瞬は 小宇宙で ふわりと彼を抱きしめた。 Fin.
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