人間の身体は、夢を見ている時には、夢に会わせて身体を動かしてしまわないように、脳が筋肉の動きを封じている。
だから―― ナターシャが声に出して ハーデスを呼び、その右手を実際に前方に伸ばしたのは、彼女が ほぼ目覚めていたからだったろう。

「ナターシャ?」
「ナターシャちゃん、どうしたの?」
ナターシャが大好きな人たち、ナターシャを大好きでいてくれる人たちが、心配そうに ナターシャの顔を覗き込んでいた。
大好きなパパとマーマ。その後ろには、緑成すケヤキの木の葉。その隙間に、初夏の水色の空。
ナターシャは光が丘公園の芝生広場の木陰で、パパの膝をベッド代わりに眠ってしまっていた――ようだった。

「アレ? ナターシャ、すごい大冒険してたのに」
あの綺麗な泣き虫のラスボスは どこに消えてしまったのだろう?
ナターシャが、上体を起こし、首をかしげる。
「ナターシャちゃん、大冒険をしていたの? いいお天気で、風も気持ちいいから、ナターシャが冒険に出掛けるには ちょうどよかったね」
マーマは にこにこしながら、ナターシャの髪のリボンを結び直してくれた。
大冒険のラスボス・ハーデスと同じ顔なのに、全く違う人。
パパと一緒にナターシャの顔を見詰めているマーマは 明るくて温かく、5月の陽だまりの中で 膨らんだ蕾を 今にも開こうとしている薄桃色の薔薇の花のようだった。

「ナターシャちゃんは、どんな大冒険をしたの? 怪獣と戦ったのかな?」
声もハーデスと同じ。
だが、マーマの声は、5月の庭で温められた毬のように まろやかに弾んでいる。
冷たくない。
暗くない。
悲しくない。
マーマとハーデスが あまりに違うので――あまりに違うことが悲しくて――ナターシャは、ハーデスのことは パパにもマーマにも話さない方がいいような気がしてきたのである。

マーマに似た人が とても悲しそうにしている夢を見た。
そんな話を聞いたら、パパは いい気持ちにならないだろう。
マーマも、そんな夢を見るナターシャを 心配するに決まっている。
ぽかぽか、そよそよ。
ナターシャは、パパとマーマには、いつも 今日の お天気のようでいてほしかった。

「怪獣と戦っていたのなら、俺と瞬を呼べばよかったのに」
「ほんとダヨ。デモ、ナターシャ、パパとマーマを呼ぶ前に 目が覚めちゃったんダヨ」
「それは残念だったね。氷河は、ナターシャちゃんを颯爽と助けるカッコいいパパをやりたかったろうに」
パパは、ナターシャを颯爽と助けるカッコいいパパをやり損ねたことを、本気で残念がっているようだった。
表情は ほとんど変わらないが、微かな下唇の動きで、ナターシャには それがわかった。

「ナターシャ、次は もっと早くにパパとマーマを呼ぶヨ!」
ナターシャの その言葉で、パパの機嫌が少し よくなる。
「よし。じゃあ、次の冒険に備えて、ケーキでも食いに行くか」
「今日は あったかいカラ、パフェだよ、パフェ!」
ケーキもパフェも、マーマがОKを出してくれないと 食べることはできない。
マーマの頭の中には いつも、ナターシャの健康管理表と栄養成分カロリー表があるのだそうだった。
両腕でパパの左手にしがみつき、マーマの顔を見上げる。
マーマは そんなナターシャを見詰めながら、5秒間ほど考え込んで、
「そうだね。そろそろ夏の果物が出てくる頃だし、フルーツパフェもいいね」
「ヤッターッ !! 」

歓声を響かせ、ぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶナターシャを見て、パパも嬉しそうだった。
パパの表情は ほとんど変わらないが、ナターシャには それがわかった。
マーマも わかっているだろう。
だから、マーマも喜んでいる。

マーマと同じ顔をしているのに 悲しそうだったハーデスお姉ちゃん。
大冒険に挑み、幾多の試練を乗り越えて、パパとマーマの許に戻ることができたナターシャは、とても幸せだった。
パパとマーマと一緒にいられることが、何より嬉しい。
それがナターシャが欲しかったもの、『欲しい』と いつも思っているものだった。

マーマと同じ顔をした あの人の涙は もう止まっただろうか。
あの涙が 乾くことはあるのだろうか。
暖かく明るい5月の陽光。
カッコいいパパと優しいマーマ。
幸せなナターシャ。
あの人が どこかで まだ泣いているような気がして、ナターシャの胸は少し痛んだ。






Fin.






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