「氷河が、好きで憧れた人って、やっぱ、マーマのことか? 氷河のマーマが、片眉を動かして 街のチンピラ共を撃退してたのか? だとしたら、“母は強し”だなー」
ウィークエンド・シトロンのアイシングは、氷河とナターシャが共同で行なうことになった。
氷河とナターシャがキッチンに移動すると、星矢と紫龍と瞬は早速、幼い頃の氷河の憧れの人の特定作業に取り掛かったのである。
リビングルームのセンターテーブルの上で、頭を突き合わせて、こそこそと。

氷河の憧れの人といえば、まず彼の母が挙げられるが、それは瞬が即座に却下した。
片眉を動かす行為は 決して悪事ではないし、氷河の母が強い女性だったことも、いかなる疑いも挟まない厳然たる事実である。
だが、彼女の強さは、断じて、片眉を上げてチンピラを撃退するような強さではない。
そうであってはならない。
海よりも深く広い氷河への愛ゆえに、彼女は強く美しいのだ。
片眉でチンピラを撃退するマーマは、瞬の美意識が受け入れられなかった。

「そんなはずないよ。ここは順当にカミュでしょう。彼の眉は 芸達者そうだったし」
という瞬の推察には、紫龍から異議の申し立てがあった。
「いや、決して できなかったわけではないだろうが、カミュはそんなことはしなかったと思うぞ。彼の眉は、二股になっているだけで 十分に からかいの種だったろう。この上、片方だけ動くだの、右眉の上だけ動くだのの芸ができてしまっては、もはや お笑い芸人の域だ。多芸にも 程がある。カミュは、片眉だけ動かすようなことは、意地でもしなかっただろう」
紫龍の異議申し立てには、その場にいた面々を納得させるだけの説得力があった。
瞬と星矢が、ほとんど意識せずに、紫龍の異議に首肯する。
「でも、だったら、ガキの氷河が、鏡相手に必死こいて真似しようとするほど好きな憧れの人って誰だよ」
首肯して、星矢は、ふりだしに戻り、瞬は、ある衝撃の事実を思い出した。
瞬の表情の強張りに気付き、紫龍が片眉をひそめる。

「瞬? 心当たりがあるのか?」
「あ……え……うん……」
どうして紫龍は、そんなことを訊いてくるのか。
訊かれて困ることではないが、訊かれたら 答えないわけにはいかないではないか。
もちろん、その“心当たり”に不都合や問題があるわけではないのだが――うっかり思い出してしまった衝撃の事実を 仲間たちに語る瞬の声は、微妙な震えを帯びることになった。

「兄さんが……できてたんだよね。子供の頃から、片方の眉毛を動かすの」
「ああ、そういえば……。それで、おまえに ちょっかいを出す子供や大人たちに ガンを飛ばしまくっていたな、一輝の奴」
「えーっ、鏡片手に 片眉動かす特訓するほど、氷河が好きで憧れてた人って、一輝のことなのかよーっ !? 」
「星矢、声が大きい」
氷河やナターシャに聞かれて困ることではないはずなのだが、紫龍に声の音量を注意された星矢は、わざわざ小声で、同じ言葉を言い直した。

「えーっ、鏡片手に 片眉動かす特訓するほど、氷河が好きで憧れてた人って、一輝のことなのかよーっ !? 」
「カミュの眉は、右眉がドジョウ掬いを踊り、左眉が阿波踊りを踊れたと言われた方が、まだ信じられるな。氷河の憧れの人が一輝。事実は小説より奇なりと言っても、それでは あまりに“奇”が過ぎる」
「そこまで言わなくても……」
そこまで言わなくてもいいと思うのだが、言いたくなる紫龍の気持ちが わかってしまうのが 困りもの。
瞬は、左右両方の眉をしかめた。

「氷河が一輝兄さんに憧れてくれてたなら、それは とっても嬉しいんだけど、何か 合点がいかないっていうか、しっくりこないっていうか……。歳の離れた先達に憧れて、その真似をするのなら わかるけど、兄さんの真似……? 氷河が……?」
口で言うほど、氷河が兄を嫌っていないことは知っているが、それでも にわかには信じ難い“奇”なる事実。
戸惑いを隠しきれない瞬の顔を、星矢と紫龍は 同情の色を帯びた目で見詰めることになった。

「自分を育ててくれた親や父祖、年長の師を真似るのであればリスペクトだが、同列同等の同輩の真似は、ただのパクリだからな」
「ほんとは好きだったとしても、氷河は意地でも一輝の真似なんかしないと思うけど……。人は見掛けによらないのかなあ……」
「ナターシャは、パパとマーマの真似したいヨ。パパが憧れてた人の真似もしたいヨ!」
「おわっ !! 」

リビングルームのセンターテーブルで、比喩ではなく実際に 頭を突き合わせて 内緒の相談事にいそしんでいた氷河の仲間たちは、そこに いつのまにかナターシャの頭が混じっていることに、互いの頭をぶつけてしまうほど驚いた。
その潜入をアテナの聖闘士たち(内、2名は黄金聖闘士)に気付かせもしないとは、ナターシャには 聖闘士というより忍者の素質があるのかもしれない。
両手で抱えていたデサート用ナイフとフォークの入った籠を、ナターシャがテーブルの中央に置く。
週末ケーキが出来上がったらしい。
氷河が、ケーキ皿と飲み物の入ったグラスを載せたトレイを持って、リビングルームに移動してきた。
ケーキを切り分けるのは いつも、家族の摂取カロリーを把握している瞬の役目である。

「わあ。素敵にできたね。ピスタチオを飾ったの? ここの山盛りになっているところは ナターシャちゃんの分かな?」
「違うヨ。そこは星矢お兄ちゃんの分ダヨ。星矢お兄ちゃんは エーエンのソダチザカリだから、ジャムもピスタチオも山盛りなんダヨ」
「ナターシャ。おまえ、小さい頃の瞬みたいに優しいな」
星矢の言葉には、『大人になって公平を心掛けるようになってから、瞬は(俺への)優しさが減じた』という意味が込められていたのだが、ナターシャは『瞬みたいに優しい』というフレーズだけを切り取って、嬉しそうに顔を ほころばせた。

パパとマーマが、ナターシャの二大“憧れの人”なのだ。
瞬にだけ憧れている分には、星矢と紫龍も(おそらく氷河も)何の不安も感じないのだが、ナターシャの憧れの対象が パパとマーマの二人であることが、ナターシャの周囲の大人たちを安心させてくれないのだった。
そこにもってきて、今度は、『パパが憧れてた人の真似したいヨ』である。
その場にいた良識ある大人たちの不安は 更に増大した。
パパとマーマの真似をして、更に 一輝(もしくはカミュ)の真似。
ナターシャの人生は いったいどうなってしまうのだろう。
不安で青ざめた常識人たちへの とどめの一撃は、
「俺が憧れていた人にナターシャが憧れて 真似をする。憧れの連鎖か。なかなか いいな」
という、良識を疑わずにいられない氷河のコメントだった。






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