次に 僕がナターシャちゃんに会ったのは、それから数年後。 アンドロメダ座の聖衣を授かるための試練、サクリファイスへの挑戦権を得るための戦いに挑むことになった前日。 アンドロメダ島の西側の砂浜。 アンドロメダ島の浜には珍しい大きな岩の陰。 みんなが寝起きする宿舎と修行場のある浜とは反対側の浜にある その岩陰は、城戸邸のエニシダの茂みの陰同様、アンドロメダ島での僕の秘密の逃げ場所だった。 そこに ナターシャちゃんの姿を見い出した時、僕は、僕自身が 以前と変わらず逃げ場所を作って ぐずぐずしていることに改めて気付いたんだ。 そして、そんな自分に がっかりした。 もちろん、ナターシャちゃんとの再会にも すごく驚いたけど。 だって、アンドロメダ島は、地図にも載っていないような絶海の孤島だ。 城戸邸で会った時も、セキュリティが厳しくて無関係な人間が勝手に入ってこれるような場所じゃないのに、ナターシャちゃんは どうやって城戸邸の裏庭に入り込んだんだろう? って、あとになって不審に思ったけど、アンドロメダ島に現れるなんて、これはもう 彼女が普通の女の子じゃないことは確実だった。 魔法使い、宇宙人、超能力者、仙女、妖精――ナターシャちゃんは いったい どれなんだろう? ナターシャちゃんは、今日は くるぶしが隠れるくらい長い白色のワンピースを着てて、宇宙人や超能力者っていうより、可愛い花の妖精みたいだった。 「ナターシャちゃん」 僕が顔を上げて 彼女の名を呼ぶと、ナターシャちゃんは、相変わらず明るく元気な声と表情で、 「こんにちはダヨ!」 と言って、僕の側に駆けてきた。 ナターシャちゃんは、僕が 悩んだり 落ち込んだりしてる時に、僕を励まし力付けるために現れる天使なのかな。 「マーマは お悩み中ダヨ」 そう言って首をかしげる。 うん。図星。 ナターシャちゃんと初めて会った日。ナターシャちゃんの励ましのおかげもあって、僕は、あのあと 大泣きせずに兄さんと別れて、これまで聖闘士になる修行を続けてくることができた。 自分でも 随分 強くなれたと思う。 だけど、そのせいで、僕は、以前より一層 人を傷付けることが恐くなってしまったんだ。 明日、僕は、サクリファイスへの挑戦権を得るために、これまで共に修行を続けてきた仲間と戦わなければならない。 普通に戦えば、実力的には 僕が勝つと思う。 もちろん、できるだけレダを傷付けることのないように、注意して戦うつもりだ。 でも、聖衣を手に入れられるかどうかの大事な戦い。 レダは死に物狂いで僕に向かってくるだろう。 僕の予想外の力を発揮することもあるかもしれない。 そんなレダを、僕は 傷付けずに倒すことができないかもしれない。 僕は、それが不安で 嫌で 恐い。 こんなことで、僕は聖闘士になれるんだろうか。 敵を倒したくない聖闘士なんて。 「僕が聖闘士になっていいんだろうか……」 ナターシャちゃんに そんなことを言っても どうなるわけでもないのに、肩を落として、僕は呟いた。 ナターシャちゃんが、砂の上に座り込んでいる僕の顔を覗き込んでくる。 ナターシャちゃんは、今日も真剣な目で 大真面目に、ナターシャちゃんらしいスケールの大きなことを言い出した。 「マーマが挫けて聖闘士にならなかったら、この世界は滅びちゃうんダヨ。ひどいことになるんダヨ」 「まさか」 何年も経ったのに、ナターシャちゃんは変わってない。 何年も経ったのに、相変わらず、僕のことをマーマと呼ぶ。 でも、僕より 随分 小さくなって――違う、変わったのは僕だ。 僕が大きくなって、ナターシャちゃんは小さいまま。 ナターシャちゃんが天使か妖精なら、それは不思議なことでも何でもないんだろうけど、でも、本当に? 「まさかじゃないヨ。マーマが強くなって聖闘士にならないと、世界が大変なことになるんダヨ。それで、そうなったら ナターシャも幸せになれないから、ナターシャはマーマを励ましに来るんダヨ。パパが言ってタ。ナターシャはまだ小さいから、自分の幸せだけを考えててもいいケド、いつかはマーマみたいに みんなの幸せを考えられる立派なオトナになるんだぞって。パパは、そんなマーマが大好きナノ。ナターシャは、だから、マーマみたいに立派な人になるんダヨ。マーマがここで挫けたら、ナターシャは、リソーとモクヒョーを一度になくしちゃうヨ。ナターシャ、幸せにれないヨ!」 理想と目標……って。 ナターシャちゃんは、前に会った時も、そんなことを言ってた。 マーマは、地上の平和を守って たくさんの人の命を救う立派な人になる――って。 アテナの聖闘士になるってことは、その“立派な人”に一歩 近付くことなのかもしれないけど、世界だの、地上の平和だの、ナターシャちゃんは相変わらずスケールが大きい。 僕も小さな頃は、ナターシャちゃんみたいだった。 世界の平和を守るために力を尽くしたいと、本気で考えて――ううん、今だって そう思ってるよ。 あの時の気持ちを忘れたわけじゃない。 「ごめんね、ナターシャちゃん。僕は、挫けないよ。少しずつだけど、なりたい自分に近付いてるのに、ここで尻込みしていたら、僕は 僕の理想と目標を自分で捨てるのと同じだ。僕は――前に進む。他に道はない」 気遣わしげだったナターシャちゃんが、僕の決意を聞いた途端、ぱっと明るい笑顔になって、飛び跳ねるように勢いよく その場に立ちあがる。 僕の顔を覗き込むために砂についていた両手と両膝の砂を払うと、彼女は 海の方に視線を転じた。 「マーマ。ここはアンドロメダ島? 海が すごく綺麗ダヨ」 『ここはアンドロメダ島?』と訊いてくるところを見ると、ナターシャちゃんは ここがどこなのかを知らないまま、僕のいる場所にやってきた――んだろうか? 僕のために? ナターシャちゃんには、この島の海や浜が綺麗なことは、この訪問のおまけにすぎないんだ。 そう。この島は、海も空も砂浜も とても綺麗だ。 でも、そんなことを言っていられるのは、あと1時間くらいだけだよ。 日中は灼熱のこの島は、日が暮れたら、日本の冬より寒くなる。 日暮れ前の今は、この島でいちばん過ごしやすい春の気温。初夏の水温。 「パパやマーマは ナターシャに、人前で水遊びをしちゃダメって言うけど、マーマしかいないところなら、いいヨネ」 そう言って、ナターシャちゃんは波打ち際に向かって駆け出した。 水遊びするのは構わないけど、波にさらわれたら大変だよ。 僕は慌ててナターシャちゃんのあとを追いかけた。 彼女は、本当にどこから来たんだろう。 彼女が その足に履いているのは、靴でもサンダルでもなく スリッパだった。 妖精の服みたいだと思っていたのは、妖精の服じゃなく、もしかしてネグリジェ? スリッパを脱いで裸足になったナターシャちゃんは、ネグリジェの裾を持ち上げて、波打ち際で、砂と足を洗う波の感触を楽しみ始め――そして、僕は気付いたんだ。 「ナターシャちゃん、君……」 彼女の足首に、痛々しい傷の輪が描かれていることに。 ナターシャちゃんは、傷だらけだった。 足首も膝も腕も手首も――まるでブロックを組み立てて作ったロボットみたいに、身体中に傷のつなぎめがある。 初めて会った時、普通の日本人とは身体のバランスが違うと感じたけど、これは――。 ナターシャちゃんは、普通の日本人と違うんじゃなくて、健常者と違っていた。 でも、人間だ。 ナターシャちゃんの身体は金属やプラスチックでできているわけじゃない。 間違いなく、生きている。 心も持っている。 感情も表情も愛情もある。 なぜか、僕の心臓が 痛いくらい どきどきして――でも、何も言えない。 「わあっ」 歓声を上げて、ナターシャちゃんが 僕の許に駆けてきた。 「マーマ。ナターシャ、これ、見付けた。つるつるしてて可愛い。これは石ころナノ? それとも貝殻?」 ナターシャちゃんの小さな手には(手首にも腕輪みたいな傷があった)クリーム色をした小さな貝殻が載っていた。 「こ……これは、タカラ貝だよ。小さいから、チドリタカラ貝……かな。もう中はからっぽだね」 僕は何を言っているんだろう。 そんなことより、この傷のことを確かめなくちゃ――。 「丸くて、可愛いナー。おうちに持って帰っても平気カナ」 「ナターシャちゃんが見付けたんだから、ナターシャちゃんのものだよ」 僕が そう言うと、ナターシャちゃんは 考え深げな目をして、しゃがんで 小さなタカラ貝を 砂の上にそっと戻した。 「ウウン。やめとく。この世界のものを ナターシャのおうちに持って帰るのは危険だカラ」 この世界? ナターシャちゃんのおうちがある世界は、“この世界”とは違う世界なの? ナターシャちゃんのいる世界は どんな世界? ―― 僕が そう尋ねるのを妨げようとしたのじゃないだろうけど、僕が そう尋ねようとした、まさに その瞬間、ナターシャちゃんは僕に帰宅を知らせてきた。 「ナターシャ、おうちに帰らなきゃ。マーマ、頑張って! マーマは世界一 強い。マーマが この世界を守るんダヨ!」 仮定形でも疑問形でも未来形でもなく現在形で、ただの事実を告げるように、ナターシャちゃんは僕に言う。 不思議な少女。 何かが普通でない女の子。 ナターシャちゃんに言われると、それが現実になるような気がする。 ナターシャちゃんの生きている世界が どんな世界なのか、それを知ってどうなるんだろう。 ナターシャちゃんの身体が傷だらけなことなんて、その訳なんて、ナターシャちゃんが 現に生きて元気でいるなら、どうだっていいことだ。 ナターシャちゃんは、僕の不思議な魔法少女。 僕が落ち込むたびに現れて、僕を励まし力づけてくれる 可愛い妖精。 それでいい。 ナターシャちゃんの世界がどんな世界なのかを知ろうとして、ナターシャちゃんの身体の傷の訳を聞いて、ナターシャちゃんを困らせたり傷付けたりするくらいなら、何も知らず 何も聞かずにいる方がずっといい。 日が暮れ始めたアンドロメダ島の砂浜で、僕はそう思ったんだ。 |