仕事を自宅に持って帰ることは許されない。 勤務医に 自宅でまで仕事をさせることを避けるためではなく(それもあるかもしれないが)、データやカルテを病院の外に持ち出して 万一 盗難にでも遭った場合、あるいは紛失してしまった場合、それは極めて センシティブな情報の漏洩事件になり、社会的な大問題になってしまうからである。 だから、仕事は病院内で。 ただし、自宅で 個人の研鑽のために研究学習を行なうことは自由。ご存分に。 それが昨今の総合病院の勤務医のワークスタイルだった。 であるからして、瞬の自宅マンションの書斎には、書類の類は ほとんどない。 書籍とパソコン。 最近は筆記具を使う機会も減った。 『医師は大抵 悪筆なので、万一 カルテが盗まれても、泥棒は その判読ができないだろう』というジョークは、今は口にしても わかってもらえない(医師であるにもかかわらず、瞬は悪筆ではなかったが)。 ともかく、瞬のデスクの上にスペースは余っていた。 余裕のあるデスクの一角に、その物体が鎮座ましましていることは、ゆえに、学究の妨げにはならない。 とはいえ、その物体が あまりにも その場に そぐわないものであるという事実は、変えようがなかったが。 高さは20センチほど。陶器製。 色は鮮やかな朱色。 直径10センチほどの円筒状で、ポリバケツの蓋のような帽子をかぶっている、見ようによっては愛らしい姿。 それは、前世紀には よく見掛けたポスト――俗に言う丸型ポストの、かなり精巧なミニチュアだった。 サイズ以外の見た目は、本物にそっくりだったが、バケツの蓋のような帽子は 取り外せるようになっている。 ポストの中は、二つに区切られていて、ペンを立てておく場所と メモ用紙の類を立て入れておく場所になっていた。 形や用途はともかく、鮮やかな朱色が、基本的に白いものと黒いものしかないデスクの上で 異様な目立ち方をしている。 もちろん、そのミニチュアのポストは、瞬が自ら好んで購入したものではない。 それを購入したのは――もとい、瞬に購入させたのは、つい1週間ほど前に、氷河が彼の許に引き取った幼い女の子だった。 池袋を氷の街にして、顔の無い者との派手なバトルを繰り広げた氷河が、その戦いの後始末の際に拾ってきた少女。 氷河の母の名をもらった その少女は、可愛らしい顔立ちをしていて、幸福とは言い難い生い立ちを背負っていることを感じさせない、きらきらと明るく輝く瞳を持つ少女だった。 氷河を自分のパパだと はっきり認識している。 素直で、しかも賢い。 氷河は、彼女を、自分の娘として、自分の手で育てる気満々だった。 当然のことながら、氷河の人となりを知る者たちは、氷河の決意に こぞって反対している。 氷河が子育て。 子供が そのまま身体だけ大きくなっただけの大人モドキである氷河が子育て。 ある程度の年齢に達した少年を弟子として引き受けることさえ 誰もが危ぶむ氷河が、未就学児童――しかも女の子――を育てるなど、無理に決まっている。もとい、それは無謀である。 ――というのが、氷河の周囲にいる 分別と常識を備えた大人たちの一致した見解だった。 だが、氷河は、絶対にナターシャは自分が育てると言い張っていた。 それが 彼女に『パパはここにいる』と告げた男の責任だと。 氷河の主張は、『責任を果たす力のない者に、責任を語る資格はない』という理屈で、皆に認めてもらえずにいたが。 期せずして周囲を敵にまわし、救いの手が差しのべられることも期待できない、絶体絶命のピンチに追い込まれてしまった氷河。 彼は、皆の反対を退ける最善の方法は、水瓶座の黄金聖闘士によるナターシャ養育を既成事実化してしまうことだと、考えたらしい。 そのためには、早急に ナターシャの衣類や家具を買い揃える必要があるというので、なぜか 瞬は その買い物に毎回 付き合わされていた。 洋服、リボン、バッグ、靴。ベッド、カーテン、机、チェスト。 以前は ウエイトトレーニングシステムのマシンが置いてあった部屋が、今ではすっかり様変わり。 毎日 パパとお出掛けして、あれこれ悩みながら購入したもので 子供部屋が埋まっていくのが楽しくてならないらしく、ナターシャは、すっかり買い物好きの少女になっていた。 その買い物の途中、三人で入った雑貨屋で、ミニチュアのポストに目を留めたのはナターシャだった。 ナターシャには、それは 初めて見る正体不明の何かだったのだろう。 彼女は そのポストのミニチュアを指し示し、 「これはナニー?」 と、“パパより物知り”の瞬に尋ねてきたのだ。 「これは、昔のポストだよ。昔は、こんなポストが 街のあちこちに置かれていたんだ。ポストにお手紙を入れると、郵便屋さんが そのお手紙を 宛先の住所の人のところまで届けてくれたんだよ」 昨今 公道や郵便局に置かれているポストは、金属製の四角いポストばかりである。 そもそも 個人が個人に手紙を出すことが、昔に比べて激減している。 だが、だからこそ、ナターシャは、“お手紙”というものに憧れに似た思いを抱いているようだった。 「お手紙を届けてくれるの? ナターシャ、お手紙、ほしいナ。それで、ナターシャ、お返事 書くヨ。昔のポストなら、昔の人にも お手紙 出せるネ!」 ただのポストではなく、“昔のポスト”という点が、ナターシャの心を惹きつけたらしい。 ナターシャは お手紙を届けてくれるポストに夢中。 瞳を輝かせて、パパに おねだりを始めた。 「パパ。ポスト、買ってちょうだい。ナターシャ、お手紙 ほしいノ」 「いや、手紙というのは――」 金で贖えるものなら 何でも買ってやりたいが、せっかくポストを買っても、手紙が来なければ ナターシャは がっかりするだろう。 それくらいなら、最初から買い与えない方がナターシャのため。 問題は、どう言って ナターシャにポスト(手紙)を断念させればいいか――である。 小さな赤いポストの前で 氷河が思案し始めたことに気付いて、瞬は 悩める新米パパに助け船を出してやったのだった。 「ナターシャちゃん。ポストは 僕が買うよ。僕がナターシャちゃんへの お手紙を書いて、このポストに入れる。ナターシャちゃんは、おうちで、郵便屋さんが お手紙を届けてくれるのを待っていて」 「ワーイ! ナターシャ、おうちで お手紙 待ってるヨ!」 万歳をして喜ぶナターシャの横で、氷河が視線で、『すまん。助かる』と合図を投げてくる。 水瓶座の黄金聖闘士になってから 以前より一層 クールを目指していた元白鳥座の青銅聖闘士 氷河は、今では 地上世界のどこにも存在していないようだった。 氷河が、これほど子煩悩なパパになるとは。 氷河は、そんなにも子供が欲しかったのか。 今の氷河と、懸命にクールを装っていた以前の氷河との落差が大きすぎて――今の氷河の方が 格段に幸せそうに見えて――瞬は それが切なかった。 そうして買ってきてしまった、朱色の小さなポスト。 黒と白を基調にした 落ち着いた一人暮らしの大人の部屋に、まるで そぐわないそれを見て、瞬は細く長い溜め息を洩らしたのである。 ナターシャへの手紙は、本物のポストに入れる。 この悪目立ちする置き物を、目に着くところに出しておく必要はないのだから、どこかに しまってしまおう。 そう考えて、瞬は その朱色のポストを 元の箱の中に戻した。 ナターシャが待っているだろうから、明日にでも、ナターシャが好みそうな可愛いレターセットを買ってきて、彼女のための手紙を書かなければならない。 だが、何を書けばいいのか。 たとえば、『僕の代わりに、氷河を幸せにしてください』と? 瞬は、溜め息が止まらなかった。 そんな手紙を書いて出したら、それを読んだ氷河はどう思うだろう。 笑うのか、怒るのか。それとも、それを古くからの仲間の いつもの察しのよさだと決めつけ、『すまん。助かる』と感謝して、別れを受け入れるのか。 多分、それが 氷河にとっても、自分にとっても、いちばんいいのだと思う。 氷河は、彼の“いちばん愛する人”“誰よりも愛する人”を見付けたのだ。 ナターシャに、その手紙を出したら、次にアクエリアスの氷河とバルゴの瞬が会う時、二人は共に地上世界の平和を守るために戦う同志にして仲間。 まだ十代の少年だった頃のキグナス氷河とアンドロメダ瞬の関係に戻る。 それはそれで新鮮な気分を味わうことができるかもしれない。 少々 自虐的な笑みを浮かべて、瞬は、ミニチュアのポストを収めた箱をデスクのサイドテーブルの上に移動させて、目を閉じた。 |