「ねえ、氷河。僕をナターシャちゃんのマーマにする気はない?」
瞬が そう言うと、氷河は 突然 無表情になった。
それまで 笑っていたわけでも、怒っていたわけでも、泣いていたわけでもなく、ただ 無表情と呼ぶしかない表情をしていただけだった氷河が、瞬の その言葉を訊くと、意識して自分の顔から表情を消し去った。
それから、何ごとかを言おうとして――何を言えばいいのかを必死に考えている目で瞬を見詰め、僅かに唇を動かし、指を動かし――最後に、氷河は、
「ありがとう」
という、短い言葉を瞬に手渡してきた。
無表情と呼ぶしかない表情。
だが、氷河の青い瞳には、喜びと呼ぶしかない輝きが たえられていた。

もっと早く こうするべきだったと――もっと早く、二人でナターシャを育てていこうと 言葉にすべきだったと、瞬は後悔したのである。



父ひとり子ひとりで暮らしていた家に、突然 異分子が紛れ込んできたら、繊細な子供は拒絶反応を示すものだろう。
それを案じて――瞬は、ナターシャたちとの完全同居までは考えていなかったのである。
だが、その問題に関して、ナターシャは驚くほど大らかだった。
「ナターシャ。これから、重大発表をするぞ」
「ジューダイハッピョー?」
「そうだ。実は、ナターシャのマーマは瞬だったんだ」

氷河の期待に反して、そして、瞬の不安に反して、氷河が勿体ぶって行なった重大発表に、ナターシャは あまり驚かなかった――否、ナターシャは全く驚かなかった。
驚かずに、彼女は氷河を非難してきた。
「ナターシャ、ずっと、そんな気がしてたんダヨ。なのに、パパが『マーマ』って呼んでいいって言ってくれないカラ、ナターシャ、ずっと、とっても、困ってたノ。やっぱり、そうだったんダ! パパはカッコよくて、マーマは綺麗で、ナターシャのおうちは世界一のおうちダヨ!」
驚きはせず、逆に安心したように、そして 嬉しそうに 得意そうに そう言って、ナターシャは瞬の手に飛びついてきた。


『もみじのような手』とは よく言ったものだと、ナターシャの小さな二つの手で右手を握りしめられた瞬は 思ったのである。
小さな小さな もみじだが、この もみじは温かい。
ナターシャの温かく小さな手は、『この小さな手の持ち主を、必ず幸福にしてやらなければならない』という決意と責任感を 瞬の無味の中に生じさせた。
その決意と責任感のおかげで――その決意と責任感を大切に胸に抱いて、瞬は 十代の氷河に手紙を書いたのである。






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