1ヶ月振りの来店。 彼を最初に 氷河の店に連れてきたのは 蘭子だった。 銀座に雹春堂という古美術を扱う店を構えている粋人で、『銀座の老舗バーには飽きたっていうから、骨董品じゃなく新品のバーを紹介する労を取ってやった』とは、蘭子の弁。 それ以来、新品も悪くないと言って、時折、銀座から押上まで通ってくれるようになった初老の紳士である。 彼が次に店にやってきた時には礼を言わなければ――と思っていたのだ。 ひと月前、氷河は、彼に貴重な知識を伝授してもらっていたので。 「先月、雹春堂さんから教えてもらった、紙を古く見せる方法を試してみたら、思った以上に うまくいきました。ありがとうございます」 チャームのチョコレートを出しながら、氷河が 珍しく自分の方から話しかけていったのは、最初の一杯を奢るつもりだったからだった。 和装の紳士が、『おや』という様子で、金髪のバーテンダーの顔を窺ってくる。 「色々な方法がある話をした記憶があるが、どの方法を試したんです?」 「コーヒーで染みを作り、オーブンで焼きを入れる方法を。いい感じに古ぼけてくれました」 「悪いことに使ってはいないだろうね。私のようなプロはすぐに見抜くから問題はないが、素人さんは、結構騙されるんだ。半年ほど前、雪舟の秋冬山水図の贋作に100万を出した人から、真贋鑑定の依頼を受けたことがある。国宝を100万で買えると思った不見識には呆れるしかなかったが、贋作技術は素晴らしかった。あの技術には、10万までなら出してもいいと思ったが――」 『君は、そんなことはしていないだろうね』は省略。 もし そうだった場合、関わり合いになって責任を負いたくはない――からではなく、それは、『何をしたのか知りたいから、さっさと話せ』という意味の省略だったらしい。 氷河が客のオーダーに応じる。 「悪いことには使っていません。ラブレターを書いたんです。ずっと長いこと思っていた人に、ずっと長いこと思っていたことを知ってもらおうと、青二才の頃に書いた手紙を捏造したんです。15、6の子供の頃に戻ったつもりで、15、6の子供の頃の気持ちを思い出しながら書いた手紙を、偶然を装って 読んでもらった」 「それは ぜひとも拝読したいものだが、それ以上に、君ほどの男が それほどの小細工をしなければならない人というのに、俄然 興味が湧く。うまくいったのかね」 「ええ。礼と祝杯を兼ねて、一杯 奢らせていただこうと、雹春堂さんが いらっしゃるのを待っていました」 「それはよかった」 自前の恋文の贋作作りには、罪はないらしい。 意外やスコッチ党の雹春堂主人のために、氷河はロブ・ロイを作った。 カクテルの女王 マンハッタンの贋作――もとい、バリエーションである。 「謝意の込められた酒は、一層 美味しく感じられるね」 マンハッタンのバリエーションを一口 味わうと、雹春堂の主人は 楽しそうに口角を上げた。 「だが、幼い頃からの長い付き合いの人なら、君の恋文が骨董品ではなく新作だと 気付いているかもしれないよ。紙を古く見せるための小細工は ばれなくても、書いた内容で。銘や箱書きは大事だが、肝心の作品が お粗末では どうにも仕様がない」 実に尤もな意見である。 氷河自身、そこが最も自信のない部分だった。 だが。 「俺が愛している人は、人を疑うことをしないし、おとぎ話を信じることができる清らかな心の持ち主なんです。その上、野暮な事実に気付いても、気付かぬ振りをする賢さも備えている」 「清らかで賢明。それは、滅多にない 人間の最高傑作だ。存在することに感謝して、大切にしたまえ。当たりまえのことだが、本当に良いものは、新品のうちから 良いものだ」 それが、最高傑作に対峙する時の粋人の心構えなのか。 「はい」 雹春堂主人の有難い助言に、氷河は素直に首肯した。 Fin.
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