星に願いを






牽牛星(鷲座のアルタイル)と織女星(琴座のヴェガ)が 天の川を挟んで最も近付く時、白鳥座のデネブが 二人のために 天の川に橋を架ける。
夏の大三角による大スペクタクル―― 七夕。
七夕は、天の川によって隔てられた恋人たちが、この夜、年に一度だけの逢瀬が許される――という伝説に基づいた、捉えようによっては 非常に艶めいた お祭りである。
ちなみに、笹の枝に 願い事を書いた短冊を吊るすのは日本だけの風習で、逢引き中の二人に 自分の願いを叶えさせようとするような無粋は、日本以外の国では行われていない。

『向こうは 年に一度の逢瀬を楽しんでいるんだぞ。邪魔をせず、放っておいてやればいいじゃないか』
それが、七夕の時季の氷河の口癖だった。
彼の許にナターシャがやってくるまでの。

「笹の葉、さーらさらー。ベーランダーで揺れルー。お星さま、きーらきらー。ナターシャも揺ーれールー」
著作権無視。
難しい歌詞は、マーマに意味を確認後、わかりやすい歌詞に変更する。
それがナターシャのスタイルだった。
せっかく素敵な曲なのに、『人智は果てなし、無窮の遠に』や『仰げば尊し、我が師の恩』では、意味がわからないのだ。
七夕の歌も、ナターシャ版に変換。
ナターシャにとって、七夕は、願い事を書いた短冊を笹に飾って、願いが叶うよう星に祈る素敵な お星さまのお祭りだった。

ナターシャがやってきてからは、七夕に関する氷河の考え方も、
『放っておいてやればいいじゃないか』
から、
『純真な子供たちが心を込めて描いた願いを笹に飾る。当然、織姫と彦星は、自分たちの睦み合いは我慢して、何をおいても七夕を祝う子供たちの書いた短冊を読み、そこに書かれた願いを叶えるべく尽力すべきだろう』
に変わった。

ナターシャの手には、小振りの笹の枝が握られている。
プラスチック製の人工の笹ではなく、本物の笹。
城戸邸の庭の一角にある小さな竹林から取ってきたものである。
7月に入って まもなく、『好きなだけ 持っていらっしゃい』と、沙織から連絡があったので、七夕の今日、三人で城戸邸に竹取りに行き、ナターシャが気に入った枝を切り取ってきたのだ。

天気は快晴。
織姫と彦星のデートは予定通りに行われるだろう。
空の天気は心配無用のようなので、ナターシャの心は 専ら、空の川ではなく 地上の七夕飾りの方に向いていた。


週末の日中。
ラッシュというほど混むことはないだろうが、笹の枝を持って電車に乗り込むのは 周囲に迷惑だろう。
沙織が車を出そうと言ってくれたのだが、さすがに その言葉に甘えるわけにもいかず、瞬たちは のんびりと路線バスに乗って光が丘まで戻ってきた。
駅前で降りて、家までは公園を突っ切って徒歩である。

「ナターシャちゃんは、短冊に どんな お願いを書くのかな?」
「んーとネ。もっと可愛いナターシャになれますように!」
「ナターシャちゃんが 今以上に 可愛くなったら、氷河が困っちゃうでしょう?」
「えーっ、そんなことないヨ! パパは困らないヨネ!」
「全く 困らん。ナターシャは、いくらでも可愛くなれ」
「ホラ!」
氷河の返事を聞いたナターシャが、我が意を得たりとばかりの笑顔で、瞬を振り返る。

確かに、ナターシャがどれほど可愛くなっても、氷河は困らないだろう。
困るのは、可愛いナターシャのために 氷河が買い与える洋服や玩具の置き場を確保しなければならない瞬だけなのだ。
「お願い たーんざくー、ナターシャが書いたー。お星さーまー、きーらきら、空から見てルー」
空席の目立つバスだったが、他の乗客がいる車内では歌も歌えない。
バスから降りるなり、七夕さまの歌を歌い出したナターシャは、歌声だけでなく、心も身体も弾んでいた。
駅前から公園に続く道を、ナターシャが駆け出す。

「ナターシャ、早く おうちに帰って、短冊に お願いを書くヨ!」
「ナターシャちゃん、走っちゃ駄目!」
瞬の声で、ナターシャは、ぴたりと駆けるのをやめた。
後ろを振り返って、パパとマーマがやってくるのを、その場で待つ。
「誰かにぶつかったら大変だから、道で走っちゃ駄目だよ」
瞬がナターシャの頭に手を置くと、ナターシャは頷く代わりに瞬の顔を見上げてきた。

「ナターシャ、誰かに ぶつかったら、ごめんなさいするヨ?」
「ごめんなさいだけじゃ済まないこともあるんだよ。ナターシャちゃんが転んで怪我をしたら、氷河がパニックを起こすし、ナターシャちゃんの怪我だけで終わらないこともある。たとえば、おじいさんや おばあさんが――お年寄りは長く生きてきたから、骨がとても弱くなってるの。勢いよく駆けてきた子供にぶつかられると、骨が折れちゃうこともあるんだよ。それで、一生 寝たきりになっちゃう お年寄りは とっても多いの。そうなったら、ナターシャちゃんは、ごめんなさいを言うだけじゃすまないよ」
「――ナターシャは、走っていいところでしか走らないヨ」
なぜ それをしてはいけないのかを きちんと説明すると、ナターシャは その言いつけを しっかり守る。
ナターシャが何か おいたをしたら、それは 彼女の親たちの至らなさのせいだと、瞬は確信していた。

「ん。ナターシャちゃんは、本当に いい子だね。氷河より いい子かもしれない」
瞬がナターシャを褒めると、ナターシャは、
「パパもナターシャと おんなじくらい いい子ダヨ」
と氷河を庇った。
そして、氷河と手を繋ぐ。
「ナターシャ、駆けっこも好きだけど、“パパとお手々つないで”も好き。いちばん好きなのは、“パパとマーマとお手々つないで”ダヨ」

いちばん好きなのは“パパとマーマとお手々つないで”だが、ナターシャが それをしないのは、
『狭い道で それをすると、他の人が通れなくなっちゃうでしょう?』
と、以前 マーマに言われたことを彼女が憶えているからである。
ナターシャの いい子振り免じて、瞬は 今日は ナターシャの好きなものを 彼女に与えることにした。
「じゃあ、少し遠回りになるけど、銀杏の並木道の方を通っていこうか。あっちなら、道幅が広いから、“三人でお手々つないで”ができるよ」
「ナターシャ、遠回り、大賛成ダヨ!」
マーマの言いつけを守る いい子でいると、いい報いがある。
ナターシャは、梅雨の晴れ間というより、梅雨明け後の晴れた日の空のように明るい顔になって、走らずに 銀杏の並木道の方に向かって歩き出した。






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