50億円の名画は 地上世界から消えずに済んだ。
ナターシャたちを窃盗犯にせずに済ませることは可能だろう。
警察の手を煩わせることもなく、探偵を雇う必要も生じず、絵が無事なら、小さな窃盗団の保護者たちが 50億円の 絵の賠償責任を負わされることもあるまい。
氷河の長い溜め息は 安堵の溜め息で、それは 瞬も同じ気持ちだった。
絵が無事なら、ゴッホの絵の所有者であるGさんの心や立場や懐も傷めずに済む。

そういった事柄には 瞬も心を大いに心を安んじたのだが、この空騒ぎの真の問題は、そういうところにはない。
この騒動の真の問題は、ナターシャたちが自分たちにとって不快なものを一致団結して排除しようとしたことだった。
それを正義と信じて。
ナターシャが、(誤用でない)確信犯罪者になりかけたことこそが、この窃盗未遂事件の真の問題点なのだ。

「ナターシャちゃん、あのね。ナターシャちゃんが よそにやっちゃった あの絵はね、心と身体に つらい病気を抱えた人が 一生懸命 描いた絵なの。気持ち悪くても、へたっぴでもね、ナターシャちゃんと同じように、一生懸命 心を込めて描いた絵だったんだよ」
「エ……」
ナターシャは 聡明で素直で、そして、本当は優しい心の持ち主である。
優しい人間でありたいという意思も持っている。
瞬にそう言われて すぐに、ナターシャは、自分が とても傲慢なことをしたのだということを理解したようだった。
小さくて素直な女の子が 泣きそうな顔をして、俯く。

「ナ…… ナターシャは、明るくて楽しい絵の方が みんなが喜ぶだろうって思ったノ……」
「うん。そうだね」
「ナターシャは……ナターシャは……」
ナターシャは よかれと思って、それをした。
独断で それをしたわけでもない。
皆で話し合い、皆の合意を得て、皆で力を合わせて、皆のために それをした。
実際、大部分の子供たちは、50億円の名画より、明るく健康的な 皆の力作の方を喜んだのだ。
50億円の名画は、多くの子供たちを気持ち悪くした。嫌われ、避けられた。
それは、鋭敏な感性を持つ子供たちには、“本物”の名画が 他の絵とは違う何かだと感じ取れたから――だったろう。

“本物”は“本物”であるがゆえに、子供たちの心を大きく揺さぶった――感動を与えたのだ。
不幸にして、それは 負の感動だったが。
それは、光が丘図書館にやってくる子供たちが、揃って 前向きで明るく健全な精神を保持していることの証左であるのかもしれない。
おそらく、あの絵に 前向きに感動する子供は少ない方がいいのだ。
生前 ほとんど評価されず 自死で終わったゴッホの不遇な人生を知る大人たちが、自らの苦しい境遇と経験に重ね合わせて、“すごく へたっぴで、半分 枯れているような、ちっとも綺麗じゃない”本物の名画に 感動すればいい。

「明るくて楽しい絵の方が、ナターシャちゃんは嬉しいね。でも、とっても つらい目に遭ったり、悲しい出来事を忘れられない人たちの中には、明るくて楽しい絵を描けない人もいるんだよ」
「ウン……」
ナターシャは、わからない時には『わからない』と言い、共感できない時には『ナターシャは違う』と言う。
ナターシャが『ウン』と言って頷くなら、それは『ウン』だった。

「ナターシャちゃんは、明るくて楽しい絵を描ける。それは、とてもいいことだよ。ナターシャちゃんが明るくて楽しい絵を描けるってことは、ナターシャちゃんが明るくて楽しい気持ちでいるってことで、氷河や僕は それが とても嬉しい。でも、そうじゃない人もいるってことを、ナターシャちゃんは知っていた方がいい」
「ウン。ナターシャ、わかるヨ。ナターシャも、パパに会う前だったら、あんな気持ち悪い絵を描いてたかもしれない」

『ウン』――ナターシャは わかっている。
ナターシャは、自分と自分たちだけではなく、自分たち以外の人の心や立場を思い遣ることのできる優しい心を持っているのだ。
瞬は、再び 安堵の溜め息をついた。
今度の溜め息は、比較的 短め。そして、軽くて温かい。

「でも、今は、明るくて楽しい絵を描ける。ナターシャちゃんを見付けた氷河の お手柄だね」
パパを褒められて笑顔になったナターシャを、氷河の腕に渡し、瞬は沙織の方に向き直った。
「今夜、こっそり元に戻しておきます」
瞬が小声で告げると、沙織は ごく浅く頷いた。
その唇に微笑が刻まれているところを見ると、この盗難未遂事件は 内々に収めることができるのだろう。
沙織は、今回の騒動を、むしろ喜んでいるように見受けられた。

「後藤さん――いえ、Gさんには、私の方から事の顛末を上手く 説明しておくわ。自分がゴッホのファンなのを、子供のせいにしちゃいけないって」
Gさんの“G”は、どうやら ゴッホの“G”でもなければ、ゴールドセイントの“G”でもなかったらしい。
わざとらしく口を滑らせた沙織に、瞬は、大人の作法で 聞こえなかった振りをした。

絵の価値など わからない。
億単位の値がつく画家の絵より、ナターシャの描いてくれる『パパとマーマとナターシャの絵』の方が、瞬の心を強く揺さぶるのも事実だった。
だが、ともかく、50億円の名画には、鋭敏な感性を持つ多くの子供たちの心を揺さぶる力は あったのだ。
それが“本物”の本物たる ゆえんなのだろう。

「俺はナターシャの描いた絵の方が 断然 いいと思うんだがな」
いくつになっても子供の心を失わない氷河が、実に子供らしい本音を言ってくれたが、大人の瞬は もちろん聞こえなかった振りをした。






Fin.






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