IDカードも白衣もないので、医療行為を行なうわけにはいかない。
担当の救急医から、拾ってきた老婦人の症状を聞き、彼女の応急手当てが済むと、瞬は 老婦人の付き添いという名目で、ナターシャを伴い 彼女の病室へと移動した。
6人の大部屋なのは、彼女が 緊急を要する重篤な症状を呈してはいないからである。
その病室にいるのは全員が、今日もしくは前日、熱中症で救急搬送され、今日もしくは明日 退院する予定の患者たちだった。

自分の枕元にやってきた瞬とナターシャが何者なのか、老婦人はよくわかっていないのだろう。
彼女は、意識は取り戻していたが、身体を起こすことはできないらしい。
身体を起こそうとして 腕に力を入れ、だが、すぐに断念した――ようだった。

「憶えてらっしゃいますか? 公園で、熱中症で倒れていらしたんですよ。体内冷却と点滴をして、熱中症の方は もう大丈夫なんですが、全般的に内臓疲労が――特に心臓が かなり弱っているようで、すぐに退院はさせられないそうなんです。お持ちの鞄が 大きなものだったんですけど、もしかして ご旅行中だったのでしょうか? 連絡先――ご家族に連絡を入れて、安心させてあげた方がいいかもしれません」
「……」

子供連れの若い女性(と、老婦人は思っているだろう)が、見知らぬ人間に そんなことまで口出ししてくるわけが わからなかったのか、老婦人は、瞬が尋ねたことに 何も答えてこなかった。
白衣を着てはいないが、この病院の医師であること、公園で倒れていた老婦人を見付け、勝手に ここに運ばせてもらったこと等を 瞬が説明すると、それで彼女の警戒心は消えたらしい。
ベッドに横になったまま、彼女は 幾度も瞬に頭を下げてきた。
肥満によって心疾患を負う者たちとは真逆の細い首筋が、それだけで 妙に痛そうに見える。

いかにも細い身体が作り出す細い声で、彼女は 瞬の問診に答えてきた。
それは随分と悲しい答えだったが。
「ご面倒を お掛けしました。私は、三ツ橋といいます。旅行というわけではないんですが、お察しの通り、今日 上京してきて……連絡は不要です」
「でも、ご家族には?」
「……家族なんて、おりません」
「……」
その言い方に、瞬は引っ掛かりを覚えた。
『一人暮らしです』ではなく、『家族なんて、おりません』。
身体面だけでなく精神面でのストレスが、彼女の健康を損ねている可能性が大きそうだと考えることを、瞬は余儀なくされた。

「今朝、福島から出てきました。保険証は持ってきています。夫は 昨年末に亡くなりまして、年金暮らしなんですが、入院の費用もどうにかなると思います」
「ご親族は?」
“家族”から“親族”に、微妙に範囲を広げてみる。
三ツ橋夫人は無言。
『おりません』と答えてこないところを見ると、いないわけではないのだろう。
追及すると、かえって頑なになりそうだったので、瞬は重ねて問うことはしなかった。

「ホテルはどちらに? 数日、こちらに入院していただくことになりますので、キャンセルしておいた方がいいと思うのですが――」
「……」
瞬は、彼女が 余計なお金を使わずに済むように助言したつもりだったのだが、その助言が、彼女にとっては胸を衝かれるものだったらしい。
重たげだった瞼を一瞬 大きく見開いた彼女は、すぐに枕の上で横を向き、瞬から目を逸らしてしまった。
その視線の先に、ナターシャの顔がある。
ナターシャを見て、彼女は 顔全体が引きつるほどに眉を歪め、泣きそうな顔になった。

「私は、東京に、孫に会いに来たんです。そこに泊めてもらえるものと思っていたので、ホテルも取らずにいました」
「お孫さん?」
では、彼女の娘か息子が、都内にいるのだ。
連絡を入れておいた方がいい家族も親族もいるではないか――と言葉にしてしまわないだけの分別が、瞬にはあった。
その家族や親族との間に、何かが起きたのだろう。
だから、『家族はおりません』『親族は……』なのだ。

瞬は あえて何も言わずに、沈黙の時間を長引かせた。
その沈黙の息苦しさに耐えかねて、何より 話すことを求められなかったので逆に、彼女は話す気になったらしい。
「馬鹿です、私は」
呻くようにそう言って、彼女は 一度 きつく目を閉じた。
それは、枕元のナターシャの――小さな女の子の姿を見ないための行為だったらしい。
彼女の孫も、(ナターシャよりずっと小さいが)女の子だから。
そして、その小さな女の子が、彼女には会うことの許されない存在だったから。






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