ナターシャちゃんは、誰にも物怖じすることなく人懐こく、瞬先生は誰に対しても優しく 人当たりが やわらか。
“ナターシャちゃんち”もしくは“瞬先生のお宅”の外交の顔は、“ナターシャちゃん”もしくは“瞬先生”で、ナターシャちゃんのパパは恐ろしく不愛想で非社交的。
ナターシャちゃんのパパでなかったら 近寄るのも恐いくらい――というのが、三ツ橋夫人が抱く“ナターシャちゃんち”のメンバーに対して抱いているイメージだったろう。
だから 氷河は、彼女に対して できるだけ丁寧に、できるだけ 威圧的にならないよう振舞ったのである。

「知り合いの車を借りてきました。俺と瞬は、夕べ 仕事で家に帰れなくて、友人にナターシャを預かってもらっていたんです。これから、瞬を拾って、ナターシャを回収します。できれば、そのあと、ご一緒に お茶か食事を――と思っているんですが、時間はいつまで取れるんでしょう」
前後左右どこから見ても完全に外人の男に 車のドアを開けてもらい、丁寧語で話しかけられ――三ツ橋夫人は やわらかすぎて かえって座り心地が悪く感じるのだろう黒塗りのサルーンの広い後部座席で、身体を小さく縮こまらせていた。

「すみません。私、瞬先生やナターシャちゃんの予定も確かめずに押しかけてしまって……。私は 何時まででも大丈夫なんですが――」
「ホテルをとってあるんですか」
「……ええ」
三ツ橋夫人は、おかしなことを言ったつもりはないのだろう。
妙な素振りを見せたつもりもない。
そもそも彼女は、氷河が 言葉より空気で相手の感情や思考を読む聖闘士だということを知らず、それ以前に、バックミラーで運転手に自分の様子を探られていることにすら気付いていないようだった。
彼女の周囲の空気がおかしい。
氷河は、今度は言葉で探りを入れた。

「お孫さんには会えたんですか」
娘を失った三ツ橋夫人が たった一人で わざわざ上京してくる理由は、それ以外に考えられない。
図星を突かれた三ツ橋夫人は、しばらく ぼんやりしていたが、やがて わざとらしく不自然な笑顔を作るのをやめ、自然な自嘲の笑みを浮かべた。
彼女がこの車を運転している男を血の通った人間だと思っていないことが、氷河にはわかった。
相手が人でないから、三ツ橋夫人は 本音を話す気になったのだ。

「私……何かもう、娘が死んでしまったのに、老い先短い私が生きていてもどうしようもない気分になったんです。それで、冥途の土産に、せめて最後に もう一度 孫娘に会いたくて、こっそり姿を盗み見るだけでもできないかと思って、あの子の家まで行ってみたんです。でも、マンションには入れてもらえなかった。マンションの前で3時間くらい待ってたんですけど、会えなくて……。せっかく東京まで出てきたんですから、せめて代わりに、ナターシャちゃんに会いたいと思って……」

生きようという気力。
生きていたいという意思。
生きていなければならないという義務感さえ、三ツ橋夫人からは感じられない。
母を失った直後の自分もそうだったことを、氷河は憶えていた。
あの虚無感、無力感、投げやりな気持ち。
氷河には彼女の気持ちがわかった。
だから、慰めてやる気にはならない。
『元気を出せ』は、言うだけ無駄なのだ。

「老い先短いから 生きていてもどうしようもないと、本気で思っているのか」
「え」
今の自分より何十年歳も年上の彼女は、今から何十年も前の幼かった頃の自分と同じ。
氷河は、丁寧語をやめた。
バックミラーを見るのもやめ、前だけを見る。

「あなたが作った みつばちのリボンは、8月2日の午後、瞬の病院に届いた」
「あ……はい。はちみつの日に間に合ったようで……。瞬先生から送っていただいた お写真を見て、ほっとしました。ナターシャちゃんは とても可愛くて――」
「はちみつの日は8月3日。だが、ナターシャが ぶんぶんぶんの歌を歌った公園のイベントは8月2日だったんだ。8月3日は他のイベントが入っていて、場所を確保できなかったから、8月2日をハニーの日とこじつけて、はちみつイベントは8月2日に行われた。あなたの作ったリボンは、イベントが終わってから届いた――間に合わなかったんだ」
「え……でも……」

『そんなはずはない』と、三ツ橋夫人は言い返そうとしたのだろう。
彼女の反駁の根拠は、瞬が彼女に送った写真である。
公園の広場のような会場には 特設ステージが設けられ、その周辺には見物の人間が大勢いた。
頭の左右に みつばちリボンをつけ、両腕を動かす身振りつきで、ぶんぶんぶんを熱唱しているナターシャ。
両手の人差し指で、みつばちリボンを指し示し、笑顔全開のナターシャ。
そんな写真が50枚も、三ツ橋夫人の許には届けられているのだ。
リボンが間に合わなかったのなら、あの写真は どうやって撮ったのか。
三ツ橋夫人が その疑念を口にする前に、氷河は 答えを彼女に手渡した。

「瞬とナターシャが、おばあちゃんのリボンが間に合わなかったとは言えないと言って、前日 終わった はちみつイベントを8月3日に再現したんだ」
「は?」
彼が何を言っているのか わからない。
そもそも彼は 日本語を正しく理解して使っているのか――。
三ツ橋夫人が そういう顔をして、そういうことを考えていることが、氷河には わざわざ確かめるまでもなく感じ取れていた。
夫人の困惑を無視して、話を勧める。

「片付けられるところだった、はちみつイベントの看板を貰ってきて、病院の庭に飾り、病院の看護婦や医師や職員に協力を仰いで、観客になってもらった。廃棄予定だった古いベッドを並べて特設ステージを作り、そのステージで、ナターシャは、あなたから送ってもらったリボンを髪に飾って、ぶんぶんぶんを歌ったんだ。そして、その写真を撮った」
「あ……」
疑念が消えた代わりに、三ツ橋夫人は 息をするのを忘れてしまったようだった。
三ツ橋夫人に 秘密がばれてしまったことを知ったら、瞬とナターシャは お喋りなパパを叱るだろうか。
せっかくの苦労が水の泡だと、瞬とナターシャは がっかりするだろうか。

「みつばちのリボンが間に合わなかったと言いたくなかったナターシャと瞬の呼び掛けに応じて、あなたのリボンがイベントに間に合ったように見せるために、光が丘病院の40人近い関係者が、みつばちイベントの再現に協力してくれた。あなたをがっかりさせないために。あなたに元気になってもらいたくて」

瞬から送られてきた、嬉しそうなナターシャの写真。幸せそうな家族の写真。楽しそうな人々の写真。
それらが すべて、たった一人の失意の老女の心を慰めるためのものだったとは。
氷河に知らされた とんでもない事実に、三ツ橋夫人は、暫時 我を忘れ――ぽかんと呆けていた。

「あのリボンは、私の身勝手な――好意の押しつけだったのに……。今日だって、私は、ナターシャちゃんたちの都合も確かめずに 押しかけて――私は、いつもいつも……」
では、先ほど、全く面識のない三ツ橋夫人を“みつばちリボンのおばあちゃん”と呼んだ職員も、みつばちイベント再現の協力者の一人だったのだろう。
だから、彼女は、妙に 事情を知っているふうだったのだ。

「俺とナターシャは血が繋がっていない。瞬とナターシャも血は繋がっていない。あの若すぎる おじいちゃんも、俺の血縁でも瞬の血縁でもナターシャの血縁でもない。血の繫がりがないという意味でいうなら、俺たちは皆、赤の他人だ。だが、俺たちは互いに愛し合っているし、信じ合っている」
「赤の他人……」
氷河と瞬とナターシャとカミュ。
誰も誰にも全く似ていない。
そんなことにも、三ツ橋夫人は気付かずにいたのだ――家族が家族であることを疑いもしなかった。
疑えなかったのだろう。
疑う余地も要素もなかった。

「もちろん、あの病院の職員も皆、他人だ。だが、その他人たちが皆、あなたの厚意が間に合わなかったと、本当のことを知らせて、あなたをがっかりさせたくないから、イベント再現に協力してくれた。ナターシャは、あなたを優しく親切な おばあちゃんだと思っている」
決心が鈍るから もう何も言わないでくれと、三ツ橋夫人の心は叫んでいる。
だが、彼女の心は、その叫びとは全く逆の叫びも叫んでいる。
氷河は、もう一つの叫びの求めに応えた。

「娘を失い、孫には会わせてもらえない。あなたの悲しい気持ちは、俺なりに わかるつもりだ。だが、だからといって、絶望し、自分はどうなってもいいと考えて 早まったことをするなら、絶対に瞬にもナターシャにも知られぬようにしろ。あなたが死んだら、瞬とナターシャは悲しむ。俺は、瞬とナターシャが悲しむのを見たくない」
あなたのために言っているのではないと、氷河は暗に三ツ橋夫人に告げた。
それは事実だった。
ただ 氷河の大切な人たちが、三ツ橋夫人を大切に思っているから、氷河は この愚かで身勝手な老婦人を大切にしないわけにはいかないのだ。
「あ……」
三ツ橋夫人の瞳から涙が あふれ出て、彼女は 少し 愚かでなくなったようだった。

「だって、娘が死んで、夫が死んで、孫には会えず、私、自分が何のために生きているのか、誰のために生きているのか、わからなくなってしまったんです……!」
彼女はもう、救いようがないほど愚かな人間でも、身勝手な人間でもないようだった。
彼女の言葉と声が、既に愚痴でも言い訳でもなく、反省と悔いの響きを帯びていたので、氷河は安堵したのである。
数十年前の自分と同じ老婦人を、これ以上 責めずに済む――と。

「ナターシャは、みつばちリボンのおばあちゃんに会えたら、大喜びする。それだけでは駄目か」
安堵して、氷河がバックミラーの中の三ツ橋夫人の様子を確かめると、彼女は、首を大きく幾度も横に振って、俯いていた顔も 少しずつ上向いてきていた。
「大喜びしてくれますか」
「みつばちリボンのおばあちゃんだからな」
愛する人が愛している人は、自分も愛さないわけにはいかない。
「もうしばらく、頑張って生きてみます。ナターシャちゃんが元気に大きくなるのを見たい」
「そうしてもらえると、俺も嬉しい」
そして、愛する人を愛してくれる人は、愛という一つの目的で結ばれた同志でもあるのだ。

三ツ橋夫人は ナターシャに会い、みつばちイベントで大勢の人に“お似合いで可愛いリボン”を褒められたという報告を聞き、元気になったようだった。
彼女を最も元気にしたのは、
「ナターシャは 誰とでも すぐに友だちになれる子だ。あと1、2年したら、きっと あなたの孫とも友だちになるだろう」
という氷河の秘密計画だったかもしれない。
三ツ橋夫人は 嬉しそうに、また会いに来るといって、福島に帰っていったのだった。


1週間後、光が丘病院の瞬宛てに、三ツ橋夫人から二度目の届け物があった。
また、リボンだろうかと思いつつ箱を開けてみたら、中に入っていたのは ナターシャサイズの白衣で、メッセージは、『お医者さんごっこをする時に使ってください』

ナターシャは、新しいサマードレスを買ってもらった時の10倍も大喜びで、すぐさま それを着込み、
「ナターシャ先生ダヨ! ナターシャ先生は、パパに お注射するヨ!」
と、狂喜してパパとお医者さんごっこを始めたのだった。


この白衣の丁寧な仕立てに目を留めた蘭子が、ニッチな需要を狙った幼児用コスチュームの受注販売のネットショップを出さないかと、三ツ橋夫人に商売の話を持ちかけている。
意外なことに、三ツ橋夫人は かなり乗り気らしい。






Fin.






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