ナターシャは なぜ急に悪い子になってしまったのか。 “その事実を とても嘆かわしく思っている顔”を作って、星矢は ナターシャに尋ねたのである。 そんな顔を わざわざ“作った”のは、星矢が 自然に そんな顔になることができなかったからである。 ナターシャの悪い子振りは、星矢にとっては 悪いことでも何でもなく、ごく普通のことだったので、あえて意識して表情を作らないと、星矢は ナターシャの素行を嘆いている振りをすることすらできなかったのだ。 星矢が わざわざ作った“嘆かわしげな顔”を、ナターシャは、何か珍奇なもの――たとえば、どじょうすくいを踊るサルや、自分の身体で縄跳びをするヘビ――でも見ているような目をして見詰めてきた。 そして、言う。 「ナターシャは いい子でいちゃいけないんダヨ」 「は?」 「ナターシャが とっても いい子だと、マーマがナターシャのこと心配しなくなるでショ」 「へ?」 「パパがとっても立派なパパで、ナターシャが とってもいい子だと、マーマは パパとナターシャを心配する必要がなくなって、ナターシャのマーマでいてくれなくなっちゃうんダヨ。だから、ナターシャは悪い子でいなきゃならないんダヨ。パパも立派になりすぎないようにしなくちゃならないんだダヨ!」 ナターシャの口調は『わざわざ言葉にするまでもない。そんなの常識!』の口調。 そして、星矢を見るナターシャの目は、“非常識な生き物”を見る目。 自分は 氷河に比べれば 100万倍も常識人と自負していた星矢に、ナターシャの その態度は大いに不本意なものだった。 「氷河が立派なパパになりすぎる心配なんてのは、する必要もないことだろうけど、ナターシャが悪い子でいなきゃならないなんて、いったい そりゃ、どこから湧いてきた考えなんだよ?」 星矢に向けられていたナターシャの“珍奇なものを見る目”が、暫時、一般相対性理論のアインシュタインの方程式を見せられて混乱する子供の目に変わり、それは更に、思い切り ご機嫌斜めな目に変わった。 声も もちろん、ご機嫌斜めである。 「星矢ちゃんが、そうしろって言ったんダヨ! 忘れたの !? 」 「俺が言った? え? 俺?」 『忘れたの?』と問われれば、『忘れた』と答えるしかない。 少なくとも、ナターシャに『悪い子になれ』と言った記憶は、星矢の中には1秒分ほども存在していなかった。 「い……いや、俺は そんなこと言ってないだろ。俺がナターシャに そんなことを言うはずがない」 ナターシャの目が ご機嫌斜めな目なら、彼女の隣りにいる瞬の目は、世界一の悪い子を見る目。 氷河のそれは、視線でフリージングコフィン製作に挑む目。 ナターシャの前に置かれているスイカは ほどよく冷えていたが、星矢の前にあるスイカは かぶりついた途端に 歯が欠けること確実と断言できるほど硬く凍りついていた。 「し……紫龍。おまえは信じてくれるよな? 俺はナターシャに悪い子になれなんて、絶対に言ってな……」 「悪気はなかったのだろうとは思うが……思いたいが……」 それは つまり、『信じていない』と言っているのと同じである。 紫龍は――瞬も氷河も――全く 悪気なく、途轍もなく軽率に、天馬座の聖闘士は それを言ったと信じているようだった。 そして、実は 星矢自身も、『悪い子になれ』と言った記憶はなかったが、そう解釈されても仕方のないことを軽率に、別の言葉で、自分は言ってしまったのかもしれないという不安は抱いていたのである。 だが、絶対に、『悪い子になれ』とは言っていない。 その事実を証明証言できるのは、実に皮肉なことだが、『星矢ちゃんが ナターシャに悪い子になれと言った』と主張しているナターシャ一人だけ。 だから――仲間たちの冷たい視線に びくびくしながら、星矢は ナターシャにすがっていったのである。 「ナターシャ。よく思い出せ。その時、俺は何て言った? どういう言い方をした? 『悪い子になれ』とは言わなかっただろ?」 凶器と化しているスイカをテーブルの脇に寄せて ナターシャにすがる星矢は、半泣き状態である。 星矢は、バルゴの瞬もアクエリアスの氷河も恐くはない、 だが、ナターシャのパパとマーマは、かなり本気で恐かったのだ。 星矢にすがられたナターシャが、大きな目を上目使いにして、その時のことを思い出そうとする。 それは あまり昔のことではなかったようだった。 「え……とね、ちょっと前に、パパとマーマがお仕事で、ナターシャが沙織さんのおうちに行ってた時ダヨ。ナターシャは、マーマの言いつけを守って、とっても いい子にしてたのに、星矢ちゃんは すごく お行儀が悪かったの。おやつの前に手を洗わないし、『いただきます』も言わないし、ナターシャのマンゴーのショートケーキのマンゴーを盗もうとするし。だから、ナターシャ、あんまり悪い子でいると、マーマに言いつけちゃうよって言っての。そしてら、星矢ちゃんが、マーマは少し腕白な子の方が好きなんだよって、言ったの」 「えっ、俺、そんなこと言ったか?」 氷河と瞬と紫龍の目が、あいかわらず冷たい。 星矢は、背中をよくない汗が伝って流れていくのを自覚していた。 「言ったヨ。星矢ちゃんは、ちょっと腕白で おいたをするとこが可愛いから、マーマは危なっかしくて、目を離せないんだッテ。パパは 常識がなくて だらしないから、マーマは世話を焼かずにいられないんだッテ。紫龍おじちゃんは、時々 人がたくさんいるところで裸になるから、マーマは強敵が現われた時ほど 気に掛けてるんだッテ。それから、一輝ニーサンも、無駄に攻撃的で しなくていい喧嘩ばっかりしてるから、マーマは気の休まる時がないんだッテ」 星矢に向けられる氷河と紫龍の視線は、変わらず 冷たい。 その冷たさに、少し気まずさが加わった。 「あ、いや、でも、それって事実だろ。単なる事実。それに、俺、悪い子になれとは言ってないじゃん」 気持ち的に後ずさりながら 言い訳に及ぶ星矢に、 「今のところは まだな」 と冷ややかに告げて、氷河は ナターシャに 話の先を話すよう 促した。 ナターシャが、ぱちぱち瞬きをしながら、先を続ける。 「マーマは、そんなふうに 手の掛かる子が好きなんだッテ。パパがナターシャのパパになってくれたのも、ちゃんと子育てできない 危なっかしいパパになって、困ってる人を放っておけないマーマをモノニスルためだったんだッテ。だから、ナターシャが あんまり いい子だと、マーマはナターシャのこと心配しなくなるし、パパも子育てができなくて危なっかしくて困ってるパパでなくなるから、マーマをモノにするパパの計画が台無しになるんだッテ」 「ナ……ナターシャ……」 「ナターシャちゃん……」 これは もはや、星矢がナターシャに『悪い子になれ』と言った言わないどころの問題ではない。 ナターシャは なぜか明るく嬉しそうにそう言うが――傷付いている様子を全く見せずに そう言うが、大人たちは そんなナターシャが―― ナターシャが そんなふうだから、なお一層、彼女の心が気遣われたのである。 特に氷河は、結果的にそうなってしまったのは 紛れもない事実だっただけに、心境は複雑だった。 「ナターシャは、パパの切り札で、パパの必殺技なんだッテ。ナターシャがいるから、パパはマーマをパパのものにできたんだッテ。だから、パパは、何があってもナターシャを叱れない。ナターシャが あんまりいい子だと、マーマは ナターシャのこともパパのことも心配しなくなって、自分がパパやナターシャの側にいなくても大丈夫って思っちゃうかもしれナイ。だから ナターシャは、そんなに頑張って いい子でいなくてもいいんだッテ」 「ほ……ほら、『悪い子になれ』とは言ってないだろ!」 星矢の訴えは空しく響いた。 星矢は、『悪い子になれ』より悪いことを、ナターシャに言ってしまったのだ。 瞬には、そうとしか思えなかった。 瞬を自分のものにするために、氷河はナターシャを利用した。 切り札として、必殺技として――つまり、氷河はナターシャを道具として使用した。 星矢がナターシャに言ったのは、つまり そういうことなのだ。 結果的にそうなったのは事実なのかもしれない。 ナターシャが氷河の許にやってこなかったら、瞬は今も元のマンションで一人暮らしを続け、氷河と“大人の関係”を維持していたのかもしれない。 瞬自身は、星矢の言う通り、まともに子育てができそうにない危なっかしいパパを放っておけないから――氷河やナターシャへの愛情より、一社会人としての責任感、氷河の身内としての義務感に突き動かされて、氷河やナターシャの家族になる決意をしたのだったかもしれない。 今は 責任感や義務感より愛情の方が勝っているが――だからこそ、『ナターシャちゃんに、ちゃんとしたマーマを』などということを考えたのだが――確かに、当初は。 しかし、ナターシャという道具に使われたのは瞬だけで、氷河はナターシャを道具として使うことなど 毫も考えなかったに決まっていた。 そもそも 氷河は そんなことを思いつかない。 にもかかわらず――。 |