夢の途中






カウンターに片肘をついて、一口分だけサイドカーが残ったグラスを弄んでいる その女性は、くっきりと鎖骨が浮き上がるほど、脂肪のない身体をしていた。
病的と言っていいほど細いが、病人には見えない――病人ではない。
脂肪はないが、筋肉はある。
しかし、その筋肉は目立たない。
そこにあるのは、筋肉質と思われないよう、細心の注意を払って“美しく”鍛えられた一個の芸術品だった。

カウンターチェアに座っている姿勢。脚の置き方、腕の動き。
身体には力があり、緊張感が保たれている。
所作に だらけたところは全くない。隙がない。
だが、だからこそ――それが美しく鍛え抜かれた力強い肢体だからこそ――その肉体に 強い意思や感情が感じられないことが異様なのだ。
肉体と精神の極端な不釣り合いが。
もし彼女に覇気が感じられたなら、瞬は彼女を、聖闘士とまではいかなくても、格闘家だとは思っていたかもしれなかった。

その細身の女性がカウンターに肘をついて(その腕にすら、力が こもっている)、
「綺麗ね」
と呟いた。
ふいに、虚空に向かって。

氷河の店のカウンターは、8人ほどが掛けられる緩やかな半楕円形型になっている。
その右の端に瞬、左の端に彼女。
彼女の視線の先には、彼女にしか見えない誰かがいて、彼女は その誰かに向かって その言葉を投じた――ように、瞬には見えたのである。
だが、実際には 彼女の視線の先には そんな人間は存在しなかったので――彼女は その言葉を氷河に向けて言ったのだと、最終的に瞬は判断したのだった。

氷河は、こういう時だけ、無駄にクール。無感動、不愛想。
『ありがとう』も『それほどでも』も言わない。見事に無反応。
これで接客業従事者を名乗れているのだから、社会は氷河を甘やかしすぎている。
そう思いながら、瞬は ひっそりと(氷河にだけ わかるように)嘆息したのだった。
途端に、その女性が けらけらと声を上げて笑い出し、カウンターの中ほどの席に掛けていた三人の男性常連客を ぎょっとさせる。

「二人共、自分のことだとは思わないのね」
彼女の突然の笑い声に驚き 目を見開いた他の客たちを、氷河並みに鮮やかに無視して、彼女はそう言った。
言いながら、氷河と瞬の上に交互に視線を投じてくる。
彼女の言う『二人共』が 自分たちのことだと理解することによって、彼女の先刻の呟きが(一応)自分たちに向けられたものだったらしいことに、瞬は思い至った。
ただし、“自分たち”のどちらかに向けられた言葉ではない。
どちらに向けられたものなのか、あえて わかりにくく呟かれた言葉だったのだ。
「マスターも瞬センセイも、綺麗なんて、飽きるほど言われているでしょうに、自分のことだとは思わなかったの? それとも、言われ慣れちゃって、そんな芸のない賛辞ごときには、もはや何も感じなくなってるってことかしら?」

瞬を『瞬センセイ』と呼ぶということは、彼女は瞬の職業を知っているのだろう。
その情報を、彼女は この店で得たのだろうか。
この店の外で――たとえば瞬が勤めている病院で――得たという可能性はあるだろうか。
そのいずれであったとしても、瞬は、以前 彼女に会った記憶がなかった。
この店でも、店の外でも。

職業柄、人の顔と名前は すぐに憶える。憶えたら忘れない。
が、たとえ そうでなくても、彼女が身辺に漂わせている奇妙な空気――攻撃的なようで無気力、緊張しているようで投げ遣りな空気――は、良くも悪くも印象に残る(はず)である。
にもかかわらず、瞬は彼女に会った記憶がなかった。
ということは、瞬自身は 彼女とは今夜が初対面だが、彼女の方は、幾度か氷河の店に通っていて、店の誰かに 瞬の情報を得ていた――ということなのだろう。
噂の“瞬センセイ”との対面が叶ったので、早速 接触を図ってきたのか。
否、“接触を図ってきた”というより、これは むしろ、“突っかかってきた”“絡んできた”と表する方が正しい事態である。
しかも、どういうわけか、氷河と一緒にまとめて。

これは、気のある素振りを示されたにもかかわらず、氷河が 彼女に素っ気ない対応をしたことの報復だろうか。
その可能性を、瞬は最初に考えた。
氷河に 全く動じた様子がないのは、氷河が そのことを忘れてしまっているか、彼女に気のある素振りを示されたことに 氷河が気付いてすらいないから。
後者である可能性の方が大きいかもしれない。
なにしろ 相手は氷河なのだ。

事情はどうあれ、客をもてなす立場にあるはずの氷河が黙っている以上、彼女に絡まれた もう一人の人間であるところの瞬が、怠慢な店主の代わりに、彼女の荒んだ心を静めてやらなければならない。
カウンターの端と端。
向かい合ってはいるが、彼女との間に物理的な距離があることは、吉と出るか凶と出るか。
そんなことを考えながら、瞬は一度だけ首を左右に振った。

「言われ慣れていて、何も感じないなんて、そんなことはありません。すみません。氷河のことを言ったのだとばかり」
「俺も、瞬のことを言っているのだと思った」
やっと氷河が声を発する。
この店を仕切る立場の人間として、もっと早いタイミングで言うべきことは いくらでもあったろうに、なぜ このタイミングで そんなことを言うのか。
どんな時にも 自分のペースを崩そうとしない氷河の不動心に、いっそ 感嘆して、瞬は 肩で短く息をした。

カウンターの中央席で、期せずして 愉快な見世物の観客になった三人の常連が、見事に音のない忍び笑いを その場に作り出してみせる。
彼等は突然 始まった、この愉快な見世物が自分たちのせいで中断されることのないよう、細心の注意を払っているようだった。

氷河の愛想も愛嬌もない接客態度にもかかわらず 氷河の店に通い続けてくれる粋人たちに、その理由を問うと、彼等は口を揃えて、氷河の作る酒が美味いからと答える。
だが、絶対に それだけではないだろうと、瞬は思っていた。
彼等は、氷河の普通でなさ―― 一般人として普通でないところと、彼ほどの美貌の持ち主として普通でないところ――が面白くて、話の種や何らかの楽しいハプニング、見世物を求めて この店に通っているのだ。

そして、今夜、彼等は 幸運にも、彼等が期待する面白い見世物、出し物に“当たった”のである。
その出し物の興行主は、この店の主人ではなかったが。
そして、自分が その出し物の出演者の一人にされていることが、瞬は少々 不本意だったのだが。






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