「普通は、店の責任者として、氷河が丸く収めなきゃならない場面だったでしょう。お客様に その労を取ってもらうなんて、どうかと思うよ」
一時は どうなることかと案じていたが、“大人”な客たちのおかげで 和やかに 場が治まった。
彼等は、『まだ早い時刻だったのに、楽しい出来事に遭えた』と言って、ご機嫌な様子で帰っていった。
大人な常連客たちは、このアクシデントを 彼等なりに楽しんでくれたらしい。
そんな ちょっとした出来事一つをとっても――何にしても、いつでも、氷河は運にも人にも恵まれている男なのだ。

開店前にはナターシャを連れて行くと言っていたのに、蘭子がなかなか店に現れないのは(しかも連絡も入れてこないのは)、できるだけ長い時間、瞬を店内に留まらせ、瞬で客を釣ろうとしているからだろう。
ナターシャを引き取ってから、瞬が 氷河の店に来る頻度が減っているので、蘭子は策を巡らせているらしい。
顔見知りの客は、嬉しそうに瞬に挨拶してきた。
初めて瞬を見る客も、頻繁に ちらちらと瞬に視線を投げてくる。
蘭子曰く、
『瞬ちゃんには、また会えるかもしれないから、もう一度 この店に来ようと思わせる、何かがあるのよ』
それは、氷河にはない親しみやすさの空気が作り出す現象で、蘭子はそれを“招き猫効果”と呼んでいた。

バーテンダーの怠慢を責める瞬に、氷河が、
「俺の人徳だ」
と、彼自身 思ってもいない反論をしてくる。
瞬が無言でいると、
「俺は 夢を諦めたことも挫折したこともないと、本当のことを言わなかったろう。それだけ、俺も大人になったんだ」
と、氷河は 墓穴を掘ってきた。
墓穴ではあるが、それが賢明な判断だったことも事実。
瞬は、微笑で、氷河の墓穴堀りを許してやった。

「確認のために訊いておくけど――氷河の夢って何なの」
「愛する人と幸せに暮らすことだ」
「叶った?」
「今のところ」
「うん」
アテナの聖闘士として、その夢はどうなのだと、氷河を なじるのは無意味である。
氷河は その夢の実現と維持のために必要だから、命をかけて 世界の平和を守っているのだ。

無論、生きている人間がいる場所は、誰でもいつでも夢の途中であるから、夢に挫折したばかりのバレリーナが いつまでも絶望の中にいるとは限らないように、今 夢を実現している氷河が永遠に夢を叶えた男でいられるとも限らない。
それが わかっているからこそ、瞬は 氷河の幸福な夢を守ってやりたかった。
瞬も もちろん、夢の途中を行く人間の一人である。






Fin.






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