「どうしたの?」 早朝。時刻は 6時過ぎ。 夏と言っても8月も末。 陽光からは、ひところの 焼けつくような激しさは失われている。 まして、カーテン越し。その光は やわらかい。 瞬の声は、そのやわらかな光の中に融けてしまいそうだった。 声だけでなく、氷河の頬にのばされた白い腕も、光の中に融けて消えてしまいそうである。 「いや、何でもない」 「……何でもない顔じゃないよ」 瞬の勘がいいのか、俺が わかりやすすぎるのか。 その両方なのだろうと、氷河は自嘲気味に思った。 それから、何も言わずにいるべきか、あの ひどい夢の内容を瞬に知らせてしまうべきかを迷う。 昨夜 妖艶に しっとりと濡れていた瞬の肌は、朝の光の中で さらさらと爽やかな――まるで十代の子供のそれのように、清純な肌に変わっている。 爽やかで清らかで――にもかかわらず、誘う感触、甘い香り。 つい ふらふらと本能のまま 瞬のうなじに手をまわし、その身体を引き寄せようとした途端、 「ごまかさないで」 と、瞬に釘を刺された。 セックスで ごまかそうとしたのではない。 本当に、したかった。 ただし、瞬は いつも魅惑的で、氷河が そそられているのは いつものことで、その気になれば 四六時中 24時間365日、交わり続けることも可能な体力と欲望を持つ男が、その時だけ自制の力を緩めたのは、やはり心のどこかに、ごまかせるものなら ごまかしたい、語らずに済むのなら語らずに済ませたいという気持ちがあったのだったかもしれない。 実際 ごまかすことを瞬に禁じられた氷河は、自分が見た夢の中で 死んだ人のことには言及しなかったのである。 アイザックの夢を見たと、氷河は嘘をついた。 完全な嘘ではないと、自分に言い訳をして。 「ひどい男だと思わないか。アイザックの犠牲を忘れて、俺は毎日、笑って暮らしている。」 「それがアイザックの願いだった」 ためらう様子を一瞬も見せず、瞬が きっぱり言い切るのは、氷河のためであり、アイザックのためである。 ナターシャのためでもあるだろう。 というより、この地上世界に生きる すべての人間のためだった。 アイザックを死なせたことを、アクエリアスの氷河が いつまでも悔やんでいたところで、誰も幸福にならない。 それでも悔い続けるなら、それは アクエリアスの氷河が自分の罪悪感を 少しでも和らげるため。つまり自己満足にすぎないのだ。 そう、瞬は言っている。 それは、氷河も わかっていた。 「だからといって……」 「氷河がアイザックの立場だったとしたら、どう? 氷河が誰かのために命をかけ、命を落としたのだったら、氷河は その誰かに、早く自分のことを忘れて、明るく笑って生きていてほしいと思うでしょう? いつまでも 死んだ自分のことを引きずっていてほしいとは思わないでしょう? 僕だって、そうだよ。星矢も、紫龍も、みんな同じ。誰かのために戦って死んだ人は皆、生き残った人に幸せでいてほしいと思う。当然でしょう。そのために戦って、そのために死んだんだから」 「忘れる自分を非情だと思うんだ」 「それが彼の望みだったんだよ」 瞬はアイザックではない。 アイザックと言葉を交わしたこともない。 にもかかわらず、事も無げに断言する。 アイザックを知る者として、アイザックの友人として、氷河は アイザックの心を勝手に決めるなと、瞬を責めるべきだったろうか。 そうだったのかもしれない。 しかし、氷河には そうすることができなかった。 自分より 瞬の方が、アイザックを より高潔で 愛情深く 寛大な存在にしてくれることが、氷河にはわかっていた。 「もしアイザックが、いつまでも自分の犠牲の事実を忘れず鬱々と暮らしていてほしいと 氷河に望むような人だったなら、そんな人には、氷河が いつまでも記憶に留めておく価値はないよ。でも、アイザックは、そんな人じゃなかったでしょう? 彼は、氷河の幸せを、氷河が笑って毎日を過ごすことを、心から望んでいた。そうでしょう?」 高潔で、愛情深く、寛大なアイザック。 瞬が語るアイザックの姿に、何の不満もない。 アイザックに欠けていたのは、ただ一つ。 “氷河という男に会わない”という幸運だけだった。 アイザックは高潔な男だった。 不運なことに、彼は 氷河という低俗下劣な疫病神に出会ってしまった。 瞬が語るアイザックの姿が美しく高潔すぎて、氷河は、自身の醜悪を隠しておけなくなったのである。 瞬の身体を覆うようにして、その肩口に顔を埋める。 「……あれが おまえだった夢を見た。俺とナターシャのために、アイザックでなく、おまえが死ぬ夢を見た。目覚めて……ほとんど反射的に、実際に死んだのが おまえでなくてよかったと思った。だが、あれが おまえだったとしても、俺は いずれ おまえの犠牲を忘れてしまうんだろうと思った。忘れて、笑って生きていくんだ。ひどい男だ、俺は」 だというのに、誰も責めてくれない。 氷河を責めたところで 何の益があるわけでもないのだから、それは当然のことなのだが、罪を咎められ罰を与えられるという罪人への救いが、氷河には永遠に与えられない。 それが、氷河は苦しかった。 「笑って生きているのが、氷河の務めだよ。わかっているでしょう?」 わかっている。 わかっているつもりで、アイザックを失ってからも、氷河は笑って生きてきた。 だが。 『パパ。マーマはどこ?』 夢の中で ナターシャに尋ねられた時、氷河は彼女に事実を知らせることができなかった。 『瞬は、俺とナターシャの幸せを守るために死んでしまったんだ』 その言葉を聞いたナターシャが、他人の犠牲の上に自分の幸福を築くことを当然と思うような人間になることを恐れたから。 夢の中での やりとりとはいえ、それは胸を張って 娘に推奨できる生き方ではなかったのだ。 |