「ナターシャ、ほんとは死んでるノ」
氷河は、ナターシャに語らせたくないようだった――瞬に知らせたくないようだった。
だが、瞬は知りたかったのである。

きっと、僕のため。
きっと、エティオピアのため。
きっと、この世界のためだよ。
これでよかったんだ。

毎日、必死で、そう 自分に言い聞かせた――言い聞かせ続けてきた。
約束の日に、氷河は 来てくれなかった。
迎えに行くという約束を、氷河は(たが)えた。
約束は、それが どんなに小さなことでも、それが どんなに困難なことでも、必ず守っていた氷河。
守れる約束しか交わさなかった氷河。
その氷河が 初めて破った約束は、二人の人生が かかった約束だった。

氷河が 二人の約束を破ったことは正しいことだったのかもしれない。
瞬以外の すべての人間にとっては、益のあることだったのかもしれない。
しかし、瞬の心は傷を負った。
その傷を癒そうとは思わないし、傷を負わせた人を責めようとも思わない。
瞬はただ、氷河が どんな考えで 二人の約束を違えたのか、その理由を知りたかったのだ。
ただ、それだけ。

「でも、ナターシャちゃんは生きている。元気で 生き生きしていて、明るくて、とっても可愛い女の子だよ」
言いながら、ナターシャを抱き上げ、右の腕に抱きかかえる。
これで氷河は、ナターシャを瞬の腕から奪い取らない限り、彼女の話を止めることはできない。
瞬が知りたいことは、ナターシャには 話したくてならないことだったらしく、ナターシャは 彼女と氷河の出会いについて、気負い込んで語り始めた。

「あのね。ナターシャは、最初からパパのナターシャじゃなかったノ。2回前の秋に、この川が大氾濫したんダヨ。ナターシャは、多分、村ごと、おうちごと、川に押し流されて、うんと下流の都の方まで流れていったノ。ナターシャ、岩に押し潰されたり、折れた木の枝が突き刺さったりして、ぐしゃってなってて、千切れて無くなりそうだっタ。ナターシャ、きっと死んじゃうんだなあって思ってタヨ。最初は すごく痛かったのに、いつのまにか痛くなくなってたカラ、ナターシャ、もう死んじゃってたのかもしれナイ。でも、パパが、千切れて ばらばらになって流れていくしかなかったナターシャを、茶色の泥川になってた川に飛び込んで助けてくれたんダヨ」
「2年前の嵐……」
それは、氷河が王城を出た直後、強大な嵐が上陸した頃のことだろうか。
瞬が、二人の未来のことだけを考えていた時、ナターシャは死にかけていたのだ。

「ナターシャ、ほんとは きっと すっかり死んでいたんダヨ。でも、パパは、ばらばらになりかけてたナターシャをエレウシスに運んで、デメテルの清めの火に祈って、ナターシャを生き返らせてくれたノ。エティオピアからギリシャのエレウシスまで、普通は どんなに急いでも3日はかかるんだっテ。そこを パパは半日で駆けたんダヨ!」
得意げに言うナターシャの手首や足首、肘や膝には、身体の部位を繋ぎ合わせた際の痕か、そこだけ肌の色が違っていた。
エレウシスの王子デモポンを不死にするために、大地母神デメテルが燃やした清めの火でも、一度は ばらばらになった身体を完全に元に戻すことはできなかったのか。あるいは、濁流に流された身体の欠損部分を他の何かで補った跡なのか。
ナターシャの肌の変色は、頭部と胴体を繋ぐ首の周囲にもあった。

可愛らしい少女の身体に残る幾つもの痛々しい傷跡。
それでもナターシャの笑顔が明るいのは、彼女が その傷跡を パパに命を救われた証と考え、誇りに思っているからのようだった。
ともあれ、2年前の嵐のあと、氷河が瞬を迎えに来なかった訳はわかった。
その時、氷河は、ナターシャを救うため、ギリシャのエレウシスにいたのだ。
何とか命を取りとめた幼い少女を連れて長距離の移動は 困難だったろう。
その上、巨大な嵐がエティオピアに残していった傷跡は大きく深く、ナターシャと氷河には帰る家もなかったのだ。

「ナターシャちゃんが元気になってからでも……どうして会いに来てくれなかったの」
氷河に尋ねる瞬の声は、不思議に穏やかだった。
否、そうではない。
穏やかな声で尋ねられるようになったから、瞬は氷河に尋ねたのだ。
声だけでなく心も――瞬は 穏やかになることができていた。
瞬との約束を守るために、ナターシャの命を見捨てる氷河だったなら、瞬は氷河を好きにはならなかった。

「ナターシャは記憶を失っていた。肉親も見付けられず、俺が育てるしかないと思った。二人で逃げるだけでも、苦労知らずのおまえに苦労させることがわかっているのに、どうして おまえを迎えになど――」
「嘘。氷河と離れていることより つらいことなんて、僕にはないよ。氷河も それは わかっていたでしょう」
空想の世界から、そこだけ夢のかけらを切り取って現実世界に運んできたような家の前から、氷河は一歩も動かない。
ナターシャを抱きかかえて、氷河とナターシャの家の垣根の内に入っていったのは瞬の方だった。

「……あの嵐は ひどいものだった。あの嵐を、俺は――俺が おまえを、俺たちの幸福しか考えないものに変えてしまったせいで生まれた嵐なのだと思った。そのせいで、神託が語った おまえの運命が 良くない方向に動き始めているのだと。もし 俺たちが俺たちだけの幸福を求めて生きるなら、おまえは 地上世界を闇で覆い、命という命を消し去る滅びの主となる――のかもしれない。そうなれば、おまえは、そんな己が身を悲しむだろう。結局、おまえは幸せになれない。俺は、俺が無思慮が歪めてしまった おまえの運命を元通りにしなければならないと思った」

きっと、僕のため。
きっと、エティオピアのため。
きっと、この世界のためだよ。
これでよかったんだ。

「うん……」

きっと、僕のため。きっと、エティオピアのため。きっと、この世界のため。
実際、その通りだったのに、これでよかったのだと思おうとして、実際 その通りだったのに、なぜ 涙が 滲んでくるのか。
離れては生きていられないと思っていた二人が、一人でも生きていられたことが悲しいのか。
裏切られたのでも 嫌われたのでもなかったことが 嬉しいのか。

「僕たちは、あの時、僕たちが幸せになるために二人で逃げるのではなく、僕たちが どうすれば より多くの人々の幸福に寄与できるかを考えて、兄さんを説得すべきだった」
「ああ」
2年前は間違えた。
この2年間は、間違いが間違いだったことを学ぶための2年間だったのだ。
そう自分に言い聞かせ、瞬はナターシャを氷河の手に戻そうとしたのである。
二人の道は、2年前の嵐のあとに 分かたれたのだと、大人になった二人は思い切ることができたから――思い切るしかなかったから。
ところが。

「やっぱり、王子様がナターシャのマーマだったんダ!」
ところが、ナターシャが 瞬から離れなかったのである。
今日が『はじめまして』とは思えない氷河と瞬の やりとりを見聞きして、ナターシャは そうなのだと確信したらしい。
ナターシャは、死んでも離すものかと言わんばかりの力で、瞬に しがみついてきた。

「ナターシャ!」
「ナターシャちゃん」
氷河と瞬が引き離そうとしても、ナターシャは、まるで クヌギの樹液を見付けたカブトムシのように 死にもの狂いで、瞬という木に しがみついて離れようとしなかった。
「パパとナターシャの おうちには、綺麗なマーマがいなきゃ だめなんダヨ! じゃないと、パパは寂しいんダヨ。王子様はナターシャのマーマになるんダヨ! 王子様より綺麗なマーマは、きっと見付からないヨ!」

エティオピア王国のため、地上世界のため――幼く未熟だった恋人たちは、分別ある大人になって、二人は別々の道を行くべきなのだと、2年の時間をかけて やっと、どんな わだかまりも 未練もなく思えるようになったのに。
そのつもりだったのに、氷河の愛娘の我儘を、瞬は 心のどこかで嬉しく感じていた。
『王子様を ナターシャのマーマに』
ナターシャは“マーマ”をどういうものだと思っているのだろう。つい、口許に苦笑が浮かんできてしまう。

「ナターシャ。瞬には、エティオピアの王子として、果たさなければならない務めがあるんだ」
「王子様のお務めは、王子様がナターシャのマーマになっても できるでしょ。パパが王子様のお仕事をお手伝いしてあげればいいヨ。ナターシャも お手伝いする。ナターシャ、お手伝い、大好きだモノ。だから、王子様、ナターシャのマーマになっテ」
「ナターシャちゃん」

『僕たちは、あの時、僕たちが幸せになるために二人で逃げるのではなく、僕たちが どうすれば より多くの人々の幸福に寄与できるかを考えて、兄さんを説得すべきだった』
今からでも遅くはない――のではないか。
むしろ、二人別々の2年を耐えた今だからこそ、それは可能なのではないか――。

忘れ物を届けに出掛けたきり、いつまでも戻ってこない瞬を探しに来たのだろう。一輝が騎乗した馬が、水路脇の堤防に沿って こちらに やってくるのが見えたのである。
二人 並んで、近付いてくるエティオピア国王の姿を見詰めながら、氷河と瞬は互いの手を握りしめた。

「……氷河。今からでも遅くないかな」
「この地上世界に生きて存在する すべての命を守るため、ナターシャを世界一綺麗なマーマの娘にするため、必ず一輝を説き伏せてみせる」
「うん」
「いざとなったら、ナターシャも力を貸してくれるだろう」
「兄さんは、きっとナターシャちゃんには勝てないよ」
「だろうな」

二人はもう、二人の幸せを第一に考える子供ではない。
2年前なら負けていたかもしれない一輝との戦い。
だが、2年分 大人になった今、氷河と瞬は、その戦いに負ける気がしなかった。






Fin.






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