開店まで、あと30分。 扉には、銀色の『 closed 』の文字が刻まれた黒いプレートを掛けてあった。 店内に開店準備中のバーテンダーがいることを知っているから、瞬は ためらうことなく バーの重い扉を開ける。 瞬が扉を開ける前から、地上の平和を守るために神業的な力をもって戦う黄金聖闘士のそれとは思えない 優しく温かな小宇宙で、瞬の来店はわかっていた。 カウンターの中でグラスを磨いていた氷河は、開店前の店に 従業員でない人間が無断で入ってきたというのに、顔を上げることもしなかった。 「どうした」 抑揚の全くない声で、それでも わざわざ 尋ねるのは、二人が共に過ごしてきた20数年の時間に免じてのサービスである。 氷河の素っ気ない声に、瞬は動じた様子は見せなかった。 礼を失しているのは自分の方だと、自覚しているのだろう。 そもそも、この店の主が大袈裟な心配顔で 仲間の来店の訳を問うようなことがあったなら、そんな氷河を心配するのは瞬の方になるに決まっているのだ。 「今……つい さっき、星矢の小宇宙を感じたような気がするの。近くじゃない。でも、遠くでもない。都内じゃないけど、ギリシャほど遠くじゃない。氷河は感じなかった?」 「星矢……?」 星矢の名を聞くのは久し振りだった。 星矢――もう10年近く 行方不明で、生死も不明の“仲間”。 そんな仲間の小宇宙を感じて、瞬は、20数年間ずっと彼の側にいる仲間の店に飛び込んできたらしい。 名を口にしないだけで、瞬が いつも星矢の身を案じていることは知っている。 氷河は、磨いていたグラスを、そのグラスが置かれるべき場所に戻すと、ドアの前に立つ瞬に、カウンターの席に着くよう 視線で促した。 「それを確かめるために、まさか 光が丘から ここまで駆けてきたんじゃないだろうな」 「日比谷のホテルで、同窓の医師のシンポジウムがあったの。それで……」 光が丘からではなく日比谷からなら、距離は大したことはない。 瞬の肩が上下しているのは、光速移動ではなく常人レベルのスピードで移動してきたから――心は急くのに、無理に遅く動かなければならなかったから――力のセーブに力を使ったせいなのだろう。 瞬が、上目使いで、すがるように 金髪の仲間を見詰めてくる。 氷河は、意識して冷たく、言葉を編んだ。 「無事なら連絡をよこす」 『連絡がないのは、死んでいるからだという意味?』 瞬の瞳は雄弁で――雄弁すぎて――20数年来の仲間には、声に出さない瞬の訴えが しっかりと聞き取れた。 「ほんとだよ。あれは、星矢の……」 『何年も会えないまま、どれほどの時間が過ぎたのか――』 『切なくなるので、時間を数えるのはやめてしまった』 瞬の声は すべて聞き取れる――聞き漏らすことはない。 「おまえの心配性を知っているから、あいつは、心身万全じゃないと おまえの前に姿を現わすことができないんだ。あいつ自身、傷付いている姿を仲間に見せるのは不本意だろうし」 そんなにも長い間 連絡がないのだから、死んでいるに違いない――と諦めているわけではない。 生死ということなら、氷河は 瞬より 余程 星矢が生きていることを信じていた。 『星矢は、一輝並みにしぶとい』と、かなり大雑把に、氷河は星矢の生を信じていた。 瞬は、いろいろと繊細すぎ、細やかすぎるのだ。 他の仲間たちは気付きもしないことに気付き、気に病む。 「まあ、座れ。星矢のこととなると、おまえは子供の頃のおまえに戻る」 「……ごめんなさい」 「謝ることはない」 瞬がアンドロメダ座の聖闘士だった頃は、瞬が(白鳥座の聖闘士ではなく)天馬座の聖闘士の身を案じてばかりいることが不愉快だった。 今は、自分が 瞬に心配をかけることのない大人として瞬の側にいられることが、心地良い。 その心地良さを更に深めるために、氷河は、カウンターの席に着いた瞬の髪を撫でてやろうとした。そのためにのばした手を、 「瞬先生、見ぃつけた」 瞬の心の何パーセントかを 常に占有している星矢や一輝より はるかに不快に感じられる声が、引き止める。 いつのまにか、見知らぬ男が扉の(店の内側の)前に立っていた。 害意が感じられないので気付けなかったらしい。 『不覚』と思う必要もないほど攻撃性が感じられない、そういう意味では無害な男。 しかし、不快である。 瞬を『瞬先生』と呼ぶのだから、瞬の知り合いなのだろう。 瞬より 幾つか年上に見えるが、瞬は実年齢を侮辱しているような外見をしている人間なので、瞬に比較して年齢を判断するのは危険である。 氷河は とりあえず、 「まだ準備中だ」 という事実だけを、招いた覚えのない客に告げた。 その“事実だけ”の告知は、『勝手に入ってくるな』という諌止だったのだが、招かれざる客は 声なき声は聞き取れないタイプの男であるらしく、逆に 数歩、更に店の奥に向かって歩を進めてきた。 一瞬、微かに、氷河は こめかみを引きつらせたのである。 それに気付いて、瞬が執り成すように、察しの悪い男の紹介を始める。 「あ、氷河。こちら、堂草さん。光が丘病院の僕の同僚で、大学の3年後輩。今日のシンポジウムにも出席してらしたんだ」 「瞬先生の3年後輩ですが、1年浪人しているので、歳は2つ違いです」 瞬の紹介内容に補足説明を加えながら、堂草医師が 更に店内に入り込んでくる。 その図々しさに、氷河の唇の端が ぴくりと引きつった。 「瞬の同窓なら、おつむの出来は いいはずだが」 「瞬先生に比べたら、僕に限らず、大抵の人のおつむはポンコツですよ」 皮肉を皮肉として受け取り 反撃してこないのは、皮肉に気付かないほど 堂草医師の おつむがポンコツだからなのか、皮肉に気付けないほど、彼が大らかな性格の持ち主だからなのか。 いずれにしても、反撃してこない人間相手に一人相撲をすることほど みっともないことはない。 氷河は攻撃を中断し、図々しい闖入者の観察と情報整理に着手した。 |