「美しいのは おまえのせいではないのに、とんだ とばっちりだ。と言いたいところだが、おまえが美しいのは おまえのせいだからな」 「何です、それ」 「人間の卑俗な欲や妬みで充満している外の世界に来ても、おまえは 一向に汚れる気配がない。おまえは、その澄んだ瞳の美しさを、自分で作っているんだ。トロイアの神殿にいた時には知らなかったはずの汚れ。それが どんなものなのか、おまえは今ではもう わかっているはずだ。だが、おまえは 相変わらず 清らかなままだからな」 汚れとは何なのか。 人が清らかであるということは どういうことなのか。 そんなことを、瞬と語り合いながら、氷河は 初めて瞬に出会った時に、自分が瞬を特別だと感じた訳が、その謎が、解けていくような気がしていた。 瞬は、その周囲にまとっている空気が 他の誰とも違う。 周囲の空気そのものが特別なわけではないが、瞬は 不思議な力で それらの濁った空気を 澄んで美しいものに変えてしまう。 その力、その作用は、ほとんど感じ取れないほど弱い時もあれば、驚くほど広い範囲に渡って、驚くほど強力に、素早く、空気を作り変えてしまうこともある。 トロイアのイーリオス神殿に ギリシャ人たちが踏み込んでいった時、瞬は驚異的な強さの力を発揮して、ギリシャ人たちと共に外から入り込んだ淀み汚れた空気を浄化していた。 氷河が そう言うと、瞬は、自分で自分がわからない――というような顔をして、氷河の背に腕を絡めてきた。 「イーリオス神殿が養う神の器は、トロイアに災厄をもたらす邪神が現われた時、その神を我が身に受けとめ、我が身に閉じ込めたまま、死ぬのが務めなの。そのために、器は空っぽであれば空っぽであるほどいい。僕は そう言われて、外の世界を見たい、いろんな人に会いたいという望みを叶えてもらえずにいた。僕は、空洞な器の中に神を閉じ込めたりしなくても――そうする代わりに、トロイアに災厄をもたらす神様の心を変えてしまえばいいのに――って、ずっと思ってた。僕、かなり 反抗的な器だったんだよ。氷河に会った時も、この人が僕を解放してくれる特別な人だって、直感でわかったし」 「俺が? 特別?」 では、自分たちは 出会いの時、同じように、互いに互いの中に何か特別な力を感じていたのだろうか。 自分には欲がある。 腕力や武力で他者を従え、自分より弱く卑しい人間を軽蔑する。 自分は、清らかな瞬とは対極にある、卑俗を極めた男なのだ。 ――そう思っていたので、瞬のその言葉は 氷河には ひどく意外に感じられた。 「僕はスパルタにいない方がいいのかもしれない。なぜ そうなってしまうのかは わからないけど、僕がいるせいで ヘレネーさんは一層 汚れを増していくみたい」 「それは俺も同じなのかもしれん。スパルタ王家の血を汲んだ俺が、無位無官の自由な立場で都や王城内を闊歩しているから、メネラオスは自分の中に疑心暗鬼を生み、政務に専心できないでいる――ような気がする」 「うん。王である自分より血統正しく、才能も豊かで、人望もあって、人気もあって、その上、若くて美貌にも恵まれた王子がいるのって、メネラオス王は すごくやりにくいと思うよ」 「そんな優しげな顔をして……おまえは、意外に 歯に衣着せず、はっきり物を言うな」 「うん……」 それは、自分たちはスパルタにいない方がいいという結論に直行するため。 そうすることが、国王夫妻のためになり、スパルタの復興を早めることにもなるだろうと思うからだった。 そして、氷河と瞬が 容易に その決意ができるのは、二人が 自分の力、自分の才能に、自信を持っているからだったろう。 瞬は、イーリオス神殿の神の器という立場を失っても、氷河は、スパルタ王家の一員という身分を失っても――自分たちは 路頭に迷い野垂れ死にすることはないという自信。 大層な肩書きを持たない、身ひとつの無一物になっても、誰かに必要とされ、誰かの役に立ち、誰かのために生きる人間でいられるという自信が、二人にはあったのだ。 まして、二人が二人でいるなら。 「僕たち、そういうところは、少し 似ているのかもしれない。頑丈で、へこたれる気がしないところ」 「できるだけ急いだ方がいい。出発を先延ばしにしていると、おまえへの妬みが抑えきれなくなったヘレネーが、おまえの命を絶とうと画策しかねない」 「まさか。いくら何でも」 優しい顔に似合わず はっきりした物言いができるといっても、やはり瞬は まだまだ甘い。 人間の良心や善意を信じずにいることができないらしい瞬に、氷河は少し寂しい笑みを見せることになった。 ヘレネーを罪人として断罪する事態を避けたいのなら、急いだ方がいい。 その笑みで、瞬は、それが焦眉の急を告げる事態だということを察したようだった。 だから急いで――翌日、二人はスパルタを出たのである。 旅を始めた二人が、あちこちへの寄り道を経て、最終的に聖域に落ち着いたのは、それから1年後のことだった。 そこで、二人は、最初に出会った時、自分たちが互いに互いを『特別だ』と感じた空気のようなものが“小宇宙”と呼ばれる人間の内在エネルギーだということを教えられたのである。 「他の聖闘士のどんな小宇宙に触れても、特別だと感じるのは瞬の小宇宙だけだから、その意見には賛同しかねる」 と、今でも氷河は主張しているが。 Fin.
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