「ねえ、ナターシャちゃん」
氷河の不満については いずれ善処するとして、今 最優先で解決しなければならない問題は、ナターシャの超早起き計画である。

『仕事で くたくたになって帰宅した時、家族に『おかえりなさい』と言って出迎えてもらえると、疲れが吹き飛ぶ』
おそらく ナターシャは、どこかで そんな話を漏れ聞いて、自分の『おかえりなさい』で 大好きなパパの疲れを消し去り 元気にすることを考えたのだろう。
仕事帰りのパパを思うナターシャの気持ちは尊いし、彼女の優しい気持ちは、瞬も嬉しい。
その優しい気持ちを いつまでもなくさないでいてほしいと思う。

だが、そのために 睡眠を中断し、心身共に明瞭に覚醒していない状態で あちこち歩きまわるのは、ナターシャの眠りの質を低下させ、彼女の心身の健康を阻害するし、何より危険である。
寝惚けまなこの半覚醒状態で、物にぶつかったり、躓いて転倒したり、最悪の場合、ベランダから落ちることとて、絶対にないとは言えない。
ナターシャの心身の安全のために、瞬は彼女に 早朝おかえりなさい計画を繰り返させるわけにはいかなかった。

「ナターシャちゃん、今朝、氷河に『おかえりなさい』を言ったこと、憶えてる?」
「ん……と、細い お月様が お空にいたことは憶えてるんだけど……言った? 言った? ナターシャ、パパに、ちゃんと『おかえりなさい』って言えた?」
氷河に『おかえりなさい』を言ったことさえ憶えていないナターシャは、氷河が帰宅したことすら はっきり憶えていないに違いない。
それほど――ナターシャは、あの時、朦朧としていたのだ。
危険この上ないことである。

「ナターシャちゃんは、氷河に『おかえりなさい』を言ったよ。ナターシャちゃんに『おかえりなさい』を言ってもらえて、氷河は とっても嬉しかったみたい」
「うふ」
無謀で危険なナターシャの計画は成功し、パパに喜んでもらうというナターシャの目的は達せられた。
その事実を瞬に教えてもらったナターシャは――ナターシャ自身は、計画の成功を知らなかったのだ――嬉しそうに笑った。

11時過ぎに起床した氷河は、キッチンで、自分の分の朝食と 瞬とナターシャの分の昼食の準備をしている。
とにかくケチャップが好きなナターシャのために、ナターシャの昼食はケチャップ味のチキンライスのようだった。
ケチャップの焦げる匂いが ダイニングの方まで漂ってくる。

「でも、ちょっと がっかりもしてたんだよ」
「え……」
ナターシャの『おかえりなさい』を喜び元気になったパパは、だからナターシャの大好きなケチャップ味のチキンライスを作ってくれているのだ――。
すべてが一直線につながって、恐悦至極状態だったナターシャが、マーマの思いがけない言葉に驚き、瞳を見開く。
それからナターシャは、不安そうに 二度 瞬きをした。

「氷河はね、お仕事から帰ってきて、眠る前に、ナターシャちゃんの寝顔を見るのが大好きなんだよ。ナターシャちゃんが、安心しきって幸せそうに眠っているのを見ると、お仕事で疲れてたことも忘れちゃうんだって」
「ナターシャが 幸せそうに眠ってるト?」
「そうだよ。ナターシャちゃんが元気で楽しく暮らしていられるように、氷河は毎日頑張って働いている。ナターシャちゃんが 幸せそうに眠っているっていうことは、氷河が頑張って働いてる甲斐があって、ナターシャちゃんが恐いことも悲しいこともなくて、ぐっすり安心して幸せに眠っていられるってことなんだ。だから 氷河は、ナターシャちゃんの幸せそうな寝顔を見ると、すごく嬉しくなって、もっともっと頑張るぞ! っていう気になるんだよ」
「ソッカー。パパは、ナターシャの寝顔を見るのが好きなんダー」

そのこと自体はわかったが。
そのこと自体は嬉しいが。
眠い目をこすりながら、ぼんやりした頭で『おかえりなさい』を言うより、ぐっすり 安心しきって眠っている方が パパを喜ばせられることを、ナターシャは ちゃんと理解したようだった。
しかし、不満そうである。

「そうだよ。朝早く起きて、氷河に『おかえりなさい』を言うのもいいけどね。ナターシャちゃん、氷河をもっと喜ばせるために、可愛い寝顔で眠る練習をしようか?」
「可愛い寝顔の練習ができるのっ !? 」
何が いちばんパパを喜ばせることができるのかは わかったが、それが不満。
ナターシャの不満は、つまり、『ナターシャにできることがない』ということ。
ナターシャは、パパのために何かしたいのだ。
パパのためにできることがあるのなら、何でもする。
パパのためにできることがあって、そのために努力できることが、ナターシャは何より嬉しいのだった。

「うん。イメージトレーニングっていう練習方法があるの。たとえば、いい気持ちで眠れる綺麗な音楽を聴いて、その曲を聞いて眠った自分をイメージするんだよ。綺麗で可愛いナターシャちゃんの寝顔をね」
「いい気持ちで眠れる綺麗な音楽? それって、『ねーむれー ねーむれー マーマの胸にー』とか『ねむれ よいこよー』とか?」
ナターシャの音楽のレパートリーは、『おててつないで』や『さいたさいた』等の、いわゆる唱歌と、星矢に教えてもらった沖縄民謡。
自分が歌って元気になる歌がメインだった。
眠りに関するものでは、シューベルトの子守歌やフリースの子守歌を氷河や瞬に歌ってもらって覚えたが、一度 覚えてしまうと、ナターシャは 誰かに歌ってもらうより自分で歌う方が好きになってしまうので、ナターシャの家では、子守歌は 完全に“目覚め歌”になってしまっている。
この場合、それらの曲は不適切だろう。

そんなナターシャを知っているので――瞬がナターシャのために選んだ“いい気持ちで眠れる綺麗な音楽”は、歌詞のない曲だった。
スマホで、ナターシャに聞かせてみる。
「明け方には 細いお月様が出てたから……。これは ドビュッシーっていう人が作った『月の光』っていう曲だよ。どう? うっとり すやすや眠れそうでしょう?」
何といっても歌詞がないので、歌を歌って 眠り損なうことはないだろう。

瞬が首をかしげて問うと、ナターシャは瞬に大きく頷き返してきた。
「ナターシャ、この曲、聞いたことのあるヨ」
「有名な曲だからね。こんなふうな綺麗な曲を聞いて眠る練習をすれば、お姫様みたいに可愛らしく眠るナターシャちゃんの出来あがり。ナターシャ姫のパパの氷河は、王様になった気分で 大得意になると思うよ」
「ナターシャ姫と、パパの王様?」
お姫様は、女の子の永遠の憧れである。
瞬の例え話は、ナターシャの瞳を きらきらと輝かせた。
ちなみに、ナターシャ姫のパパ王様は、キッチンでケチャップのチキンライスの盛り付け中である。
ナターシャ姫のマーマお妃様は、王様の手伝いもせず、ナターシャ姫のお相手を務めていた。

「そう言えば、この綺麗な曲を作ったドビュッシーっていう人は、氷河そっくりな人なんだよ」
パパ王様は、ナターシャ姫のために働けることが嬉しいのだから、放っておいてもいいのである。
パパ王様がナターシャ姫のために一生懸命 働いていられるのは、マーマお妃様が しっかりナターシャ姫を見ていてくれるからなのだ。

「パパみたいにカッコいいの?」
「うーん。立派な紳士で、女性にも とっても もてたらしいけど、似ているのは外見じゃないの」
「じゃあ、どこが似てるの? どびっしさんも パパみたいに 美味しいご飯が作れたの?」
もし そうなのであれば、それは尊敬に値すると言わんばかりのナターシャに、瞬は 残念ながら首を横に振るしかなかった。
19世紀後半から20世紀初頭のフランスで、その肖像画が紙幣に用いられるような著名人物が、厨房に立って菜っ葉を切るようなことをしたとは思えない。

「美味しい ご飯は作れなかったろうけど、この曲を作ったドビュッシーも、小さな女の子のパパだったんだよ。女の子の名前は、シュシュちゃん……だったかな。氷河がナターシャちゃんを大好きなように、ドビュッシーもシュシュちゃんが大好きだったんだ。ドビュッシーは、シュシュちゃんのために、『子供の領分』っていうピアノ組曲を作ってる」
「え」
「ピアノの練習をしているシュシュちゃんの曲とか、窓の外の雪を見ているシュシュちゃんの曲。シュシュちゃんのお人形のダンスの曲。美味しい ご飯の代わりに、綺麗な曲。それも素敵でしょう?」

美味しい ご飯を作れるパパは とても偉いが、綺麗な曲を作れるパパも立派だと思う。
ナターシャは、夢見る眼差しで頷いた。
「わあ、いいなあ。パパに自分のテーマソングを作ってもらったんだ!」
感嘆の声を上げたナターシャが、すぐに、
「でも、ケチャップのトキンライスの方が、3倍くらいいいけど」
というコメントを付したのは、もちろん、ケチャップの匂いが素敵なチキンライスがテーブルに運ばれてきたからである。
そして、ひよこ豆と枝豆のサラダとブロッコリーのクリームスープ、キウイと紅茶のカクテル。

『いだきます』をって、サラダを食べ、スープを飲み、チキンライスを一口。
ナターシャが顔中を笑顔にして『おいしい』と言うのを確かめてから、氷河はダイニングテーブルの自席に着席した。
そうしてから、
「その手があったか!」
と、瞬に報告(?)してくる。






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