「マーマ。ナターシャ、困っちゃうヨ」 ナターシャは いつもパパに、『難しいことは、瞬に訊くように』と言われている。 ナターシャは いい子なので、パパの言いつけを守る。 ナターシャがマーマに訊きに行くと、マーマは 大抵 すべてを心得ていて、ナターシャのわからないことや ナターシャが弱っていることや困っていることを、無くしてくれる。 パパの転職問題も、『ナターシャ、困っちゃうヨ』だけで、マーマはナターシャが何に困っているのか、すぐに察してくれた。 キッチンで後片付けをしている氷河の背に一瞥をくれてから、ダイニングテーブルの椅子に座っていたナターシャを抱き上げて、マーマは リビングルームに移動。 ナターシャの身体を 三人掛けソファの真ん中に下ろすと、マーマ自身は その隣りに並んで座った。 パパには秘密の内緒話をする時の態勢である。 「ナターシャちゃんは、氷河に作ってほしいものはないの? お歌や絵じゃなくても――お洋服でもいいんだよ?」 パパには内緒の話なのに、マーマが声を小さくしないのは、普段からマーマの声が穏やかで落ち着いているから。 これが星矢だと、内緒話を始める前に まず、『小さな声でね』と注意しなければならない。 マーマに訊かれたことに、ナターシャは ほとんど考え迷う時間もなく、左右に首を振った。 「ナターシャ、パパが作ってくれるものなら 何でも嬉しいヨ。ナターシャのテーマソングでも絵でも、小説は よくわからないけど……。でも、ナターシャが いちばん嬉しいのは―― ナターシャは、ナターシャが うんといい子になって、パパを喜ばせたいんダヨ。ナターシャが いちばん嬉しいのは、パパがナターシャのせいで喜ぶことダヨ。ナターシャが マーマみたいに優しくて清らかな心の持ち主になれば、パパは喜ぶんダヨ」 それはナターシャには、改めて考えるまでもない“ナターシャの いちばん嬉しいこと”だった。 ナターシャの生きる目的で、生きる目標。 ナターシャの夢で、希望。 パパを喜ばせること、パパの幸せ。 “ナターシャの いちばん嬉しいこと”を聞くと、マーマは、顔中 嬉しさでいっぱいになったような笑顔になった。 ナターシャはパパを喜ばせようとしていたのに、先にマーマの方が喜んでしまった。 マーマが なぜ喜ぶのかを、ナターシャは知っていた。 それは、“マーマの いちばん嬉しいこと”も“ナターシャの いちばん嬉しいこと”と同じだから。 マーマの いちばん嬉しいことも、パパの幸せだから。 ナターシャは、だから、マーマが大好きだった。 マーマがナターシャを膝の上に乗せて、ぎゅっと抱きしめてくれる。 マーマの小宇宙は いつも温かい。 「ナターシャちゃんは、本当に優しくて いい子だね。氷河も、ナターシャちゃんくらい いい子だといいんだけど」 「パパはいい子ダヨ」 「どうかなあ……。どうですか、氷河」 急にマーマが病院の先生をしている時の口調になって、患者(?)に尋ねる。 マーマ先生の患者は、リビングルームのドアの前に立っていた。 ナターシャは、これを、“ナターシャとマーマの内緒話”だと思っていたのだが、事実は そうではなかったらしい。 マーマ先生は、最初から、先生の患者にすべてを知らせるつもりだったらしい。 こういうのを“いんふぉーむど・こんせんと”と言うのだと、以前 ナターシャはマーマに教えてもらったことがあった。 患者の意思を尊重する治療方法である。 その場に立ち尽くしている氷河の前に、ナターシャを抱きかかえた瞬が 歩み寄っていく。 瞬に抱き上げられていても まだ少し低いところにあるナターシャの顔を、氷河は 少し困惑した目で(表情は いつも変わらない)見おろした。 “パパの幸せ”を願う娘の心が嬉しく、自分の空回りが悔しい――。そんな青い瞳で。 「だが、ナターシャは、他の家のパパのように、昼間 仕事に行って、夜は家にいるパパの方がいいんじゃないのか?」 「どーして?」 『俺に何を作ってもらえたら嬉しい?』という質問には 即答できないようだったナターシャは、だが、その質問には即答してきた。 「絶対、そんなことないヨ!」 と。 「会社員パパは、お昼 おうちにいなくて、一緒に 遊んでくれないんダヨ。お仕事が忙しくて、夜遅くなってからじゃないと お家に帰ってこないし、週末は疲れて ごろごろ眠ってるんだっテ。ナターシャが公園で遊ぶ、会社員パパのおうちの子は みんな そう言ってる。3ヶ月に1回くらい、家族サービスで、家族みんなで お出掛けするけど、会社員パパは『疲れた疲れた』ばっかり言うから、あんまり楽しくなくなっちゃうんだっテ」 ナターシャの公園の お友だちには、会社員パパの他に お店パパや 運転手パパや 単身赴任パパがいて、それぞれ いいところもあれば、よくないところもあるらしい。 そして、パパを好きな子と嫌いな子がいるのだそうだった。 ナターシャは、もちろん、パパ大好き組のリーダーである。 「ナターシャは、ナターシャのパパがいちばんいいヨ。パパは、いつもナターシャと一緒に公園に行ってくれるし、ナターシャと一緒に遊んでくれるし、ごはん作るのも上手だし、ジュースを作るのも上手だし、光が丘で いちばんカッコいいパパだもん!」 『だから、テーマソングも絵も小説もいらない』と、言葉にはしない。 ナターシャは、余計なことは口にしない賢い子だった。 「そうか……そうか!」 賢明さに裏打ちされた娘の可愛らしさに、氷河は手もなく陥落。 娘の優しさと愛に感動し転職をやめることにしたらしい氷河の腕に、瞬は ナターシャを渡してやったのである。 「ナターシャちゃんへの愛を証明したかったら、テーマソングや絵じゃなく、ナターシャちゃんの名前を冠したカクテルでも考案してみたら? 氷河はバーテンダーなんだから」 と言いながら。 氷河は、あまり聡明な男ではなく、賢明な男でもない。 どちらかといえば、馬鹿な男である。 しかし、氷河は、馬鹿は馬鹿でも 凡庸な馬鹿ではない。 瞬にそう言われて、“ナターシャ”を作らず“瞬”を作るあたりは。 そして、氷河は、馬鹿は馬鹿でも、非凡で幸運な馬鹿なのだ。 その“瞬”という名の薔薇色のカクテルで、日本バーテンダー協会主催の全国カクテルコンペティションで優勝してしまうあたりは。 「カクテルの名前が“マーマ”でなくて よかったぜ」 というのが、氷河のコンペ優勝に際して、星矢が寄せた祝辞だった。 極めて的確なコメントである。 Fin.
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