光が丘公園の ちびっこ広場にブロン氏が現われたのは、翌々日のことだった。 グレイのネルのシャツに黒いパンツ。 スーツを脱ぎ、カジュアルな服装をすると、彼は10歳は若返った。 平日の午後、一人で(子供を伴わずに)子供用の遊具と子供たちの歓声が溢れている ちびっこ広場にやってきて、無言で立ち尽くしている その人が、2日前 フランス大使館で出会った特命全権公使だということに、瞬は すぐには気付かなかった。 ジャングルジムのてっぺんから その下にいる氷河の腕に飛び込む遊びを繰り返しているナターシャを、その人が熱心に見詰め続けているので 初めて、瞬はその男性がブロン氏だと気付いたのである。 瞬が 氷河に合図を送ると、氷河は とうに気付いていて、彼の存在を あえて無視していたらしい。 歓声を上げて、楽しそうに遊ぶ父と娘。 二人の上着を手に、広場の縁で、そんな父娘を見守っている母親。 本当なら、今 氷河と瞬がいる場所は、ブロン氏と彼の妻のものだったのだ。 ここまで出向いてきて、幸福な父娘を見ているだけの自分に耐えられなくなったのか、ついに彼が動く。 といっても、彼は、特に不審な行動に走ったわけではない。 彼は、ゆっくりと、ナターシャが登っているジャングルジムの方に歩み寄り、その脇に立ち、ちょうど ナターシャの目が彼の目の高さと同じところに至ったところで、『こんにちは』と挨拶しただけだった。 フランス語で、 「bonjour」 と告げたブロン氏に、ナターシャは笑顔で、 「bonjour」 と応じた。 応じて すぐにナターシャが首をかしげたのは、その人が誰なのかを思い出すのに、彼女も時間を要したから。 そして、もしかしたら、自分が口にした言葉の意味を 自分が知らないことを思い出したからだったかもしれない。 「彼女はフランス語がわかるのか」 氷河には『こんにちは』も言わず、ブロン氏が尋ねたのは、ナターシャの『bonjour』が、日本語の『ぼんじゅーる』ではなく、完全にフランス語の発音だったからだったろう。 氷河は――こちらも挨拶すらせず 即座に、ブロン氏の期待と希望を打ち砕いた。 「この子の祖父はフランス人だ。俺も瞬もフランス語は話せる」 『教えたことはないが』と、本当のことは言えない。 氷河が、本当のことだけでなく嘘も言わずに済んだのは、その時 ちょうどジャングルジムのてっぺんまで登りきったナターシャが、彼女のパパを呼んだからだった。 「パパーっ!」 「マリエッタ」 氷河より先にブロン氏が、彼の娘の名を呼び、ジャングルジムの下で両腕を広げる。 彼に張り合うつもりはなかったろうが――否、やはり氷河は張り合ったのだろう――氷河もまた、彼の娘の名を呼んだ。 「ナターシャ」 ナターシャは、ブロン氏の振舞いに気付いてはいただろう。 だが、その意味は わからなかった。 彼が呼んだ『マリエッタ』が誰なのかも わからなかった。 そして、もちろん、ナターシャは、ジャングルジムのてっぺんから氷河の腕の中に飛んだのだ。 氷河が、ナターシャの身体をしっかりと受けとめる。 父と父の戦いに勝利した その時、さすがの氷河もブロン氏の顔を見る勇気は持てなかったようだった。 しかし、彼等から離れた場所に立って、父娘を見守っていた瞬には、すべてが見えていたのである。 パパが大好きなナターシャの笑顔。 ナターシャを失うことなど、もはや考えられない氷河の苦衷。 ナターシャのそれと同じ色をしたブロン氏の瞳が、絶望の色に沈む様。 心臓を、見えない手に鷲掴みされたような痛みを覚えて、瞬は自分から ナターシャたちの許に歩んでいくことができなかった。 だから 瞬は、ブロン氏が 彼の方から自分の方に歩み寄ってきてくれたことに、安堵の気持ちさえ覚えたのである。 自分(たち)のせいで、悲しみの淵に沈んでいるブロン氏の側に近付いていき、彼を傷付けた張本人である自分が『元気を出してください』と慰めるような、高慢で心無いことをせずに済んだことに。 そんなことをしなくていいようにしてくれたブロン氏に、瞬は感謝の念を抱くことさえした。 そんなブロン氏が、 「彼女のDNA鑑定をさせてほしい」 ナターシャと自分の親子鑑定を求めてきたことを、だから 瞬は 不幸な父親の当然の権利、当然の申し出だと思った。 よその家の子供に究極の個人情報を渡せと求める行為。 それを図々しい要求だと撥ねつける権利を、ナターシャの幸せなパパとマーマは持っていないに決まっている。 「彼女を あなた方から奪い取ることが目的なのではない。たとえ生物学的に彼女が私の娘だと判明しても、マリエッタが私との暮らしを望んでいないのなら、無理強いはできないし、そんなことをしても無意味だ。彼女が私のマリエッタでないことは わかっている。だから、諦めるために……。万一、彼女が私や妻に 少しでも関わりのある子なのであれば――私は故国に領地と城を住居を持っていている。私は、彼女を私の遺産相続人にしたいのだ」 一見 柔和に見える面差し。 だが、瞳は冷たい。 妻と娘を失う以前は――彼が幸福だった頃は――この瞳も、優しく温かかったのだろう。 しかし、今、彼の瞳は冷たく――そして、瞬の表情を探っていた。 ブロン氏と瞬のやりとりが気になったらしい氷河が、ナターシャの手を引いて、瞬たちのいる方に近付いてくる。 氷河は、瞬が口を開く前に、 「ナターシャは俺と瞬の娘だ。そんなものを受け取る義理はない」 そう言って、ブロン氏の要求を退けた。 ブロン氏が、氷河の取りつく島もない態度に、気を悪くした様子も見せず、一目で作り笑いとわかる微笑を浮かべる。 「……2年間、何も言ってこなかったんだ。営利誘拐でないことは わかっていた」 それを確認するための遺産相続話だったらしい、 確かたいことを確かめたブロン氏は、 「時折、この公園に来ることを許してください」 と、氷河ではなく瞬に求めてきた。 「それは、もちろん、ブロンさんが……あの……おつらくないのであれば」 氷河は、なぜ きっぱり拒絶しないのだと言いたげな目をしていたが、彼自身の思いを言葉や表情に表わすことはしなかった。 氷河も、自分の幸福がブロン氏の不幸の上に築かれている事実は自覚しているのだ。 ブロン氏が、今度は作り物ではない悲しげな微笑を目許に刻む。 「私より、瞬さん。あなたの方が つらそうだ。ありがとう。あなたの優しさに感謝します」 そう言って、彼は、頭を下げたのか、項垂れたのか、俯いたのか――。 背の高い大人たちの やりとりを下から見上げていたナターシャが、ちょうど そのブロン氏の視線を捉えることになった。 そして、笑顔になる。 「ナターシャのマーマは とっても優しいんダヨ。みんな、そう言うヨ。パパも、マーマが優しくて綺麗だから、マーマを大好きになったんだっテ。ナターシャもマーマが大好きダヨ。ナターシャは、マーマみたいに優しくて お利口なリッパな人になるんダヨ!」 やっと、大人たちの会話に混ざれる。 そう思い、喜んで、ナターシャは、自分に語れることを勢いよく吐き出したのだろう。 ブロン氏はナターシャの前に しゃがみ込み、ナターシャと自分の視線の高さを同じにした――完全に同じにはならなかったが、近付けた。 そのため、氷河と瞬には じかに自分の目で確かめることはできなかったのだが、その時のブロン氏の複雑な表情、千々に乱れる思いは、瞬たちにも容易に察することができたのである。 「それは素敵だ。ナターシャちゃんなら きっと、とても優しい心の持ち主になれるだろう。こんなに美しく優しいママンが 側についているのだから。だが、私の妻も、ナターシャちゃんのマーマに負けないほど優しく温かな心を持った人だったんだよ」 「エ……」 ナターシャは、自分と同じ色のブロン氏の瞳を間近で見て、彼が楽しいだけの話をしているのではないことを、敏感に感じ取ったらしい。 ほんの少し 首を右に傾けて ブロン氏の瞳を覗き込み、その瞳の中にあるものを じっと見詰めていたナターシャは、やがて 苦しげに眉根を寄せた。 「お兄ちゃん、泣かないデ……」 ブロン氏は涙を流してはいなかった。 涙どころか、その瞳は 砂漠のように乾いていただろう。 彼の瞳が潤んだのは、ナターシャに『泣かないで』と言われた その瞬間だったに違いない。 言葉もなくナターシャに頷いてみせてから、彼は すぐに その場に立ち上がった。 「お兄ちゃんとは……。ナターシャちゃんは、嬉しがらせが上手だ」 あまりに色々な思いが交錯して――彼は、“もはや笑うしかない”状況に追い込まれてしまったのだろう。 泣き笑っている顔を瞬たちに見られないようにすることすら、彼は思いつけずにいるようだった。 |