波の勢いを殺し、荒れ狂う波の破壊の力を和らげるのが、防波堤の役目である。 いわば、防波堤は波の天敵。 にもかかわらず、波が防波堤に親しみ、自ら防波堤に近付き、戯れ、荒れ狂っていた自身の力を弱めることに喜びを感じるようになってしまったら、それは波と防波堤の関係の破綻を意味する。 防波堤はただ、自分が守るべき者の前に立ち、自分が守るべき者たちが傷付くことがないよう、自らの務めを果たしていただけだったのだが。 「あまり私に親切にすると、氷河くんが焼きもちを焼きませんか」 「氷河は そんなことはしませんよ」 『十代の頃とは違うのだから』という言葉は、喉の奥に呑み込む。 『マリエッタを彼女の実父に返してやれない代わりに親切にしていることだと知っているから、氷河がブロン氏に妬くことはない』という本音も もちろん言葉にしない。 そんな瞬に、ブロン氏は、なぜか苛立つ様子を見せた。 「私には、妬く価値もないということか。彼は若く美しく、パパを大好きな娘までがいる――」 「ブロンさん……?」 「あ……いえ……」 出会った頃とは、何か様相が違ってきている――と、瞬も 薄々 感じてはいたのである。 しかし、瞬は 昔から自分の価値には無頓着で、その上 ブロン氏に対しては、彼を これ以上傷付けたくない、彼を少しでも幸福にしたいと、それ以外のことは何も考えていなかった。 だから、ある日、いつものように光が丘公園にやってきたブロン氏に、 「私は、来月、故国に帰ることになりました。瞬さん。フランスに住むつもりはありませんか」 と言われた時、瞬はブロン氏の その言葉の意味が まるで理解できなかった。 「は?」 「私の故郷は、フランスの西、サルト川の岸。その周辺には良質の葡萄畑が広がる美しい田園地帯です。普段はパリで仕事に就いていますが、バカンスには――マリエッタがいた頃には、故郷の館で田舎暮らしを楽しんでいました。瞬さんも きっと気に入るでしょう」 「……ブロンさん?」 ブロン氏が何を言っているのか、自分が何を言われているのか わからない。――わからなかった。 懸命に言葉の意味を思い出し、言葉を繋げて、少しずつ 意味がわかってくるにつれ、「完全に わかる前に、できれば『冗談です』と言ってほしい」という思いが強くなる。 光が丘公園の ちびっこ広場の傍で、瞬は 言葉もなく、ただひたすら混乱していた。 瞬より先に、ナターシャとブランコで遊んでいた氷河の方が、瞬の様子がおかしいことに気付き、状況を理解してしまったらしい。 それこそ十代の頃から、瞬に惹かれ、瞬に魅入られ、瞬に近付く人間たちを数多く見、それら全員を撃退してきた氷河には、状況を説明してもらわなくても、すべてがわかってしまったのだ。 氷河は、油断して、これまで思い至らずにいたのである。 妻と娘を失い、娘を取り戻すことだけを願っている(はずの)不幸な父親までが、瞬の優しさに惹かれてしまう可能性を。 ブロン氏のような男ほど 瞬の優しさを必要としている者もいないだろうに、彼への同情心と罪悪感が、氷河の中に 氷河らしくない油断を生んでいたのだ。 氷河の中にあった同情心と罪悪感は、だが、ブロン氏が瞬に何を求めているのかを察した瞬間、一瞬で消し飛んだ。 「俺は……! 俺は、確かに、フランス男なら恋でもして、新しい幸せを掴めばいいのにと思ってはいたぞ! そう思ってはいた! だが、その相手が瞬というのは、どういう了見だ! 貴様は、ナターシャからマーマを奪うつもりなのかーっ !! 」 「エエエエーッ !! 」 突然ブランコ遊びをやめ、ケーキのお兄ちゃんの襟首を掴み上げ、怒鳴り声を響かせ始めたパパ。 ナターシャがショックを受けたのは、だが、怒髪天を衝いたパパの怒りの激しさではなく、パパが口にした言葉の方だった。 ケーキのお兄ちゃんが、ナターシャからマーマを奪おうとしている。 それはつまり、ケーキのお兄ちゃんが パパからマーマを奪おうとしているということだった。 ナターシャは、パパに襟首を掴み上げられているケーキのお兄ちゃんのシャツの裾を、小さな二つの手で 力一杯 握りしめた。 「お兄ちゃん! パパはマーマがいないと、だめだめパパになっちゃうんダヨ! パパが だめだめパパになったら、きっとナターシャは、パパと一緒にいちゃ駄目って みんなに言われる。だから、パパとナターシャから マーマを取っちゃダメ! ナターシャは、いつまでも ずっと、パパと一緒にいたいのっ !! 」 「マリエ……ナターシャちゃん……」 氷河の怒声より、ナターシャの必死の訴えの方が、ブロン氏には痛かったに違いない。 水瓶座の黄金聖闘士が最大限まで小宇宙を燃やし、渾身の拳を撃ったとしても、ナターシャの悲鳴ほどにはブロン氏を傷付けることはできなかったに違いない。 『ナターシャは、いつまでも ずっと、パパと一緒にいたいのっ !! 』 「マリエッタ……私だって……」 その先を、ブロン氏は言葉にはしなかった。 彼は不幸な父親で、そして おそらく 氷河よりも分別のある大人だったから。 ナターシャの小さな拳を包み、ブロン氏がナターシャの前にしゃがみ込む。 「ナターシャちゃん。それは誤解だ。私はただ、ナターシャちゃんのパパには 可愛いナターシャちゃんだけでなく、綺麗で優しい瞬さんもいて、羨ましいなぁと思っただけだ。私には誰もいないのに 不公平だと思っただけ」 「フコーヘー?」 「そう。ナターシャちゃんのパパだけが たくさん幸せで、私は少しも幸せでない。そういうのを、不公平という」 「ケーキのお兄ちゃんは 幸せじゃないノ?」 ナターシャが、幼い子供らしい無邪気で冷酷な質問を発し、ブロン氏は(おそらく)ナターシャを冷酷な子供にしないために、その質問に答えを返さなかった。 「ナターシャちゃんは パパと一緒にいたいだろうから――それなら、優しい瞬さんが 私の側にいてくれたら、私の心も少しは――」 ナターシャの懸念を打ち消すために『誤解だ』と言ったのに、いつのまにかナターシャの不安を煽るようなことを言い募っている自分に気付いたのだろう。 ブロン氏が 途中で言葉を途切らせる。 だが、賢いナターシャには、最後まで言われなくても ブロン氏が言おうとしていたことが、ちゃんとわかってしまった。 「デモ、マーマがいなくなると、パパはナターシャとも一緒にいられなくなって、逆フコーヘーになるんダヨ。そんなの駄目ダヨ。パパがかわいそうダヨ。ナターシャは いつまでもずっとパパと一緒にいたいヨ!」 ナターシャは逆不公平が嫌なのではない――逆不公平を理不尽と思っているのではない。 ナターシャは、パパがかわいそうなのが嫌なのだ。 パパが大好きだから、ブロン氏の幸福よりパパの幸福が、ナターシャには大切。 ナターシャは、冷酷に そう言っていた。 ブロン氏が、暫時、唇を噛みしめる。 「ナターシャちゃんは、どうして そんなにパパと一緒にいたいんだい?」 ブロン氏が『私では駄目か』と問わないのは、ナターシャを困らせないための思い遣りだったろうか。 否、それは おそらく保身だった。 その答えを聞いて、自分が傷付かないための。 「ナターシャのパパは、ナターシャが一人ぽっちで寂しかった時に、ナターシャを ぎゅうってしてくれて、ナターシャを寂しくなくしてくれたんダヨ! パパと一緒なら、ナターシャは 恐いことも悲しいこともないんダヨ!」 『私では駄目か』と問わなかったので、ブロン氏は、『お兄ちゃんじゃダメ』という答えを聞かずに済んだ。 だから、彼の心が傷付かなかった――とは言えないだろうが。 ナターシャが温かい救いの手を必要としていた時、ブロン氏は、ナターシャの側にいることができなかった。 それも不公平――“運”もしくは“不運”という名の不公平なのかもしれない。 努力では どうすることもできない不公平が、確かに人の世にはある。 だが、ナターシャが温かい救いの手を必要としていた時、彼女の孤独や不安をすべて打ち消してしまえるほど温かい手を差しのべ、彼女を包むことができたのは、氷河の運がよかったからではないだろう。――それだけではない。 そこにいたのが 氷河以外の人間だったなら――そもそも その人間は、孤独と不安の中にいる幼い女の子を自分の手で救い出してやろうと考えることもしなかったかもしれない。 幸運な氷河は、自分の意思で、今の幸福を手に入れたのだ。 それを『不公平だ』となじられたのでは、氷河は割に合わない――それこそ、理不尽な責めというものである。 ブロン氏は立ち上がった。 パパを求めるナターシャの心が誰に向かっているのかを、悲しいほど冷酷に思い知らされたブロン氏に、しかし、同情することもできず、氷河は そっぽを向いている。 瞬は、そんな氷河の分も、ブロン氏の心を少しでも慰め 安んじさせられるよう努めなければならなかった。 「僕と氷河は、幼い頃に両親を失いました。これが、僕たちが 初めて手に入れた家族なんです。大切にしますから。何があっても、ナターシャちゃんとナターシャちゃんの幸せを 守りますから」 不公平というのなら、幼い頃の瞬と氷河は、一人の子供として これ以上ないほどの不遇の中にあった。 ブロン氏は恵まれた子供時代を過ごしただろう。 少なくとも、アテナの聖闘士になるために命がけの修行を強いられた子供たちよりは。 『だから、今の幸福を大目に見てくれ』というのではない。 『だから、今の幸福の価値がわかる』と言っているのだ。 瞬の訴えの意味するところを、ブロン氏は わかってくれたようだった。 彼は、今にも その瞳から涙が零れ落ちそうな瞬に――瞬を泣かせないために、微笑を作り、 「あの子の幸福を信じていますよ」 と言ってくれた。 人の運命は、人の幸不幸は、不公平なものなのだから仕方がない――と、ブロン氏も完全に悟っているわけではないだろう。 だが、それが 人間が自分の生を生きるということなのだ。 人間の人生が すべて同じように公平であったなら、人間が個人として生きることは無意味である。 整然たる秩序を有するコスモスの花でさえ、花の色や大きさや背丈は それぞれ異なり、不揃いで、だからこそ美しいコスモス畑を作っているのだ。 「マリエッタが――いいえ、ナターシャちゃんが幸せでいてくれれば、それは私の幸福が実現していることでもある。私は幸せです」 不公平な人生。 自分が幸福でなくても、幸福な人間の幸福を守るために そう言えることが、人間が それぞれの個人として 生きる意味なのかもしれない。 それでも さすがに明るい笑顔を作ることはできなかったのだろう。 ぎこちない微笑を作って、ブロン氏は瞬たちに『さようなら』を言った。 自分たちは、二度と彼に会うことはない。 氷河と瞬が感じていた予感と同じ予感を、ナターシャが覚えていたとは思えない。 だが、ナターシャがブロン氏に告げた、 「アリガトウ」 の響きが不思議に深く瞬たちの胸に――おそらくブロン氏の胸にも――沁み込んでいったのは、紛れもない事実だった。 もしかしたら、その一言を言ったのは、ナターシャではなく、ナターシャの中に眠っているマリエッタの心のかけらだったのかもしれない。 「ナターシャちゃん(マリエッタ)……」 自分と同じ色のナターシャの瞳の奥に、ブロン氏は何を見たのか。 「どこにいても、君の幸せを祈っているよ」 それが、ブロン氏が 彼のマリエッタに 彼の父として告げた最後の言葉だった。 Fin.
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