「斗音くんのパパとマーマ?」 マーマにだけ聞こえるように小声で尋ねると、マーマは 同じくらい小さな声で、ナターシャに、 「そうだよ。目の手術を受けるように斗音くんを説得するのは、僕じゃなく、斗音くんのパパとマーマがすることだと思ったから、僕が呼んだんだ」 と、答えてきた。 斗音くんのパパとマーマ。 斗音くんを嫌っているのかもしれない、斗音くんのパパとマーマ。 そうとわかったら――ナターシャには、斗音くんのパパとマーマに言いたいことがあったのである。 どうしても言わなければならないことがあったのだ。 「斗音くんは、ピアノもヴァイオリンも弾けない子だって、パパとマーマに見捨てられるのが悲しくて、パパとマーマに褒めてもらいたくて、作曲を頑張ったんだヨ! でも、ほんとは、斗音くんは、斗音くんのパパとマーマに 大好きって言ってもらいたいだけなんダヨ!」 ナターシャが 彼女を抱きかかえている瞬の腕から宙に飛び上がらんばかりの勢いで、斗音くんのパパとママに強く きっぱりと言い切る。 「ナターシャちゃん……」 ナターシャの力強い断言に、その場にいる人間たちの中で最も驚いているのは、どう見ても、自身の気持ちを代弁してもらったはずの斗音くんだった。 彼は、そんなことをナターシャに言ったことはなかったから。 自分は『パパとマーマに大好きって言ってもらいたいだけ』なのだと、彼自身は考えたこともなかったのだ。 だが、ナターシャは そうであることに自信を持っていた。 「ナターシャ、わかるヨ! パパのおうちで暮らすようになった時、ナターシャが そうだったモノ! マーマに初めて会った時、ナターシャが そうだったモノ!」 そして、ナターシャの願いは叶ったのだ。 「それで、ナターシャのパパは ナターシャを大好きって言ってくれて、ナターシャのマーマも ナターシャを大好きって言ってくれて、ナターシャは嬉しくて、ほっとして、可愛くて優しくて いい子のナターシャになれたんダヨ。とっても幸せなナターシャになれたんダヨ。だから、斗音くんのパパとマーマも――」 斗音くんのパパとマーマも、斗音くんを大好きと言ってくれれば、斗音くんは幸せな斗音くんになれる。 明るく綺麗なオーラの持ち主になれる。 ナターシャは、そう確信しているようだった。 肝心の斗音くん自身は ナターシャの大熱弁に圧倒され、あっけに取られているようで――もしかしたら、ナターシャの訴えは事実と違っていたのかもしれない。 ナターシャは、自分がそうだったから、斗音くんも そうに違いないと決めつけていただけだったかもしれない。 ナターシャは、斗音くんの 捻じれた心を誤解して、勘違いしていただけだったのかもしれない。 だが、斗音くんは ナターシャの必死の訴えを『そうじゃない』と否定することはしなかった。 それは、斗音くんが自分でも気付いていなかった真実だったからなのか、それとも、ナターシャの誤解(?)が善意と優しさでできたものだったからなのか。 その いずれであっても。 かつての自分と同じように悲しい子供である斗音くんが、今の自分と同じように幸せなオーラを持つ子供になってほしいと、ナターシャが願っていることだけは、斗音くんには わかっていただろう。 他でもない、ナターシャの その綺麗なオーラで、わかっていただろう。 斗音くんは、『違う』とは言わなかった。 無言で 膝の上に二つの拳を置き ベンチに座ったままの斗音くんに、彼のパパとママが すぐに『大好き』と言ってくれれば、それだけで 斗音くんは――ナターシャも――嬉しい気持ちになれただろうに。 斗音くんのママが、斗音くんではなく瞬に、つらそうな目で訴えてくる。 「斗音の目が見えないのは、私のせいです。斗音が おなかの中にいる時、きっと大丈夫と一人で勝手に決めつけて、私は、ぎりぎりまで演奏活動を続けた。あの時、私は もう二人の人間だったのに、私は自分のことしか考えていなかった。私はもう少し 子供のことを考えるべきだったのに……」 「縦山さん」 彼女は 悪い人ではない。 決して悪い人間ではない。 だが、今、彼女がすべきことは、自分の反省や言い訳ではないのに――と、瞬は悲しい気持ちになったのである。 これでは、親子の間の溝が深まるのも仕方がない。 「私は、斗音が生まれてからも、ピアノをやめることはできなかった。斗音のために生きることもできない。子育てなんかできない。方法も知らない。へたな育て方をして、取り返しのつかないことをするより プロに頼んだ方がいいと思った。斗音のためにも その方がいいと思った。私は 斗音を見るのが恐かったんです。斗音の光のない瞳が、私を責めているような気がして――」 そんな言い訳を言っている暇があったら、早く斗音くんに『大好き』と言ってあげてほしい。 ほとんど泣きたい気持ちで、瞬が そう思った時。 「おばちゃん。斗音くんを ナターシャの おうちにちょうだい。ナターシャは 斗音くんが大好きだから」 『私は斗音が大好き』 たった それだけの短い言葉を、いつまでも言ってくれない斗音くんのママの気持ちが、ナターシャには理解できなかったらしい。 ナターシャが、斗音くんのママに先んじて、その言葉を口にする。 ナターシャのその申し出で、自分の愚かさに気付いたらしく、縦山夫人――斗音くんのママの頬からは血の気が引いていった。 ナターシャが、隣りに座っている斗音くんの手を握りしめようとして、手をのばす。 ナターシャの指が斗音くんの手に触れる直前、斗音くんは別の人に さらわれてしまっていた。 さらったのは、他ならぬ斗音くんのパパで、彼はまるでヴァイオリンを抱えるように、斗音くんの身体を左の腕で抱きかかえていた。 「大好きだよ、斗音」 彼は、行動を開始するのが遅い分、目標地点に直行するタイプらしい。 「ママも もちろん、斗音を大好きだ。毎日、斗音が作った曲を弾いて、『斗音に こんなに素晴らしい曲を作らせてしまった自分は、斗音のママ失格だ』と悲しんでいた。ママは不器用で臆病なんだ。ピアノででしか、自信を持てない。パパもそうだ。だが、斗音を大好きだ。大好きだから、どうすればいいのか、わからなかったんだ。でも、大好きだ。斗音を心から大切に思っている。大好きだ」 斗音くんのパパとママが不器用で臆病――というのは、謙遜でも何でもなく、単なる事実のようだった。 たった今も、彼等のオーラは不安げに、どちらかといえば頼りなく揺れている。 正面から向き合うことを恐れて、これまでずっと放っておいた大切な息子に、これまでの不器用と臆病を許してもらえるのか。 彼等は不安で、怯えていた。 「斗音くんは、斗音くんのパパとマーマにそっくりだね」 これは、誰かを責めて解決するようなことではないので――瞬は、その腕に抱えていたナターシャに向かって、笑いながら そう言った。 マーマに似て 賢いナターシャが、すぐに その言葉の意味を解する。 「そっくりさんだから、斗音くんも 斗音くんのパパとマーマに大好きって言えなかったんだネ」 ナターシャと瞬は 波長が合っているので、意思の疎通がスムーズである。 「斗音くんも、パパとマーマに大好きっていえばいいんダ!」 そして、斗音くんの家族は(斗音くんの家族も?)も、似たような波長で、全員が舞狂で臆病なので、意思の疎通にも 行動を開始するのにも 時間がかかる。 時間はかかっても、いつか気持ちは通じ合いそうだった。 いかにも おっかなびっくりという様子で、小さな声ではあったが、 「僕はパパとママが大好き」 と、斗音くんが言えたことから察するに。 斗音くんは おそらく、自分と同じように不器用で臆病な両親のオーラを、自分のせいで歪んでしまったのだと誤解して、自分を責め、自分を嫌っていただけだったに違いない。 「斗音くんが手術を受けるかどうかは、斗音くんと斗音くんのパパとママが話し合って決めてください」 不器用で臆病な音楽一家に そう言って、瞬はナターシャと共に 早々に 彼等の前から退散した。 おそらく、手術は行われることになるだろう。 「小宇宙に言葉に行動。そのどれか一つだけで、人を一人、完全に理解したと思い込むのは危険だね。人の心は そんなに単純なものじゃないから」 その日、瞬から事の顛末を報告された氷河のコメントは、 「そうか? 俺は、小宇宙も言葉も行動も、『おまえとナターシャが大好き』だけでできているが」 だった。 ナターシャが、間髪を入れずに そんなパパのあとに続く。 「ナターシャも、『パパとマーマが大好き』だけー!」 そんな父娘もいる。 人と人の繋がりは 様々である。 Fin.
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