10回転ジャンプは、朝ご飯の前に






今期フィギュアスケートのグランプリシリーズが始まり、日本選手が大活躍。
屋外のウィンタースポーツのシーズンには まだ間があり、他のスポーツの多くがオフシーズンに入ったタイミングだったせいもあって、やれ4回転半を飛んだだの、かつてないコンビネーション・ジャンプを成功させただの、史上最高点で優勝しただのと、昨今のニュースでは、テレビでもネットでも必ずフィギュアスケートの話題が出る。

いろいろな衣装を身に着けた、いろいろな国の人が、いろいろな曲に乗って行なう いろいろな演技を幾度も見せられて、ナターシャはすっかりフィギュア・スケートに夢中。
バレエやミュージカルのように、鑑賞のために長時間 座っている必要がなく、演技自体もスピーディなのが、ナターシャの気に入ったらしかった。

「氷の上で くるくるくるくるダヨ。4回転してるって言ってるけど、ほんとに そんなに回ってるのかナ。ナターシャ、何回見ても 数えられないヨ。いちばん多く 回って優勝した人は、氷上のプリンスって呼ばれてるんだって。プリンスって、王子様ってことだヨネ。あんなに くるくるできる王子様は、世界に一人しかいないヨ。くるくるプリンス。すっごく、かっこいいヨ!」
カッコよくて素敵と、ナターシャは くるくるプリンスを大絶賛。
ソファの上で飛び跳ねて、自分も 氷上のプリンスのように くるくるしようとして失敗したナターシャは、もう少しで頭から床に激突するところだった。

たった一人の大事な愛娘が よその男を褒めそやしていたら、それだけでも十分 不愉快なのに、娘が その男のせいで大怪我を負いそうになったのである。
床に落ちる前にナターシャの身体をキャッチした氷河が、氷上のプリンスを大嫌いになったのは 極めて自然かつ当然の成り行きだったろう。

「ふん。何が氷上のプリンスだ。あれくらい、俺にだってできる」
ナターシャの身体を受けとめたままの態勢で、憮然とした顔の氷河が言う。
氷河の苛立った口調の呟きを聞いたナターシャは、氷河の腕の中で ぱっと顔を上げた。
「パパも、あんなふうに くるくるできるのっ !? 」
ナターシャとしては、氷上のプリンスも素敵だが、パパが世界一 素敵なら、それに越したことはないのである。
パパが氷上のプリンスより たくさん くるくるできるなら、それがいちばんいいに決まっていた。

そして、ナターシャの世界一カッコいいパパでいたい氷河の答えは、
「あれくらい、朝飯前だ。4回転どころか、10回転だってできるぞ」
である。
「氷河……」
そんなことを言ったら、ナターシャの次のセリフが、『ナターシャ、パパのくるくるジャンプを見てみたいヨ!』になることを、氷河は わかっているのだろうか。
瞬は、話が実際にそういう方向に進む前から 既に溜め息をついていた。

「氷河。氷原の貴公子としては、氷上のプリンスに対抗意識が湧くのは仕方ないかもしれないけど、そんな一般の人に対抗意識を燃やしても仕様がないでしょう」
「ヒョーゲンのキコーシって、ナニー? ラーメンの おだしとは違うノー?」
『氷原の貴公子』と『ラーメンのお出汁』は全く違うものだが、ナターシャの中で、『ひょうげんのきこうし』が『氷原の奇行子』もしくは『表現の貴公子』もしくは『表現の奇行子』に変換されないことは、氷河には喜ばしいことなのかもしれなかった。
何にせよ、それはナターシャには初めて聞くフレーズだったのだ。

「氷原っていうのは、草やお花じゃなく 氷で覆われた野原のことだよ。貴公子っていうのは、かっこよくて気品のある立派な男の人のこと」
「かっこよくて気品のある立派な男の人? パパのことダネ! 氷原の貴公子って、パパのあだ名なの?」
お姫様が主人公のお話には、時々 気品のある人が出てくるので、ナターシャは“気品”の意味は知っている。
マーマに、『心の美しさや優しい気持ちが、表情や振舞いに出ることだよ』と教えてもらった。
パパが氷原の貴公子なら、それは とても素敵なことである。
ナターシャは、嬉しかった。

「氷上のプリンスより、氷原の貴公子の方が 断然かっこいいヨ! 王子様はいっぱいいるけど、貴公子はパパしかいないもん!」
ナターシャが読む絵本には、白雪姫のお話にもシンデレラ姫のお話にもオーロラ姫のお話にも、王子様は出てくるが貴公子は出てこない。
貴公子は、稀少な存在なのだ。
それが自分のパパとなったら、ナターシャはもう 鼻高々だった。
無論、ナターシャと一緒に、氷河も鼻を高くする。

「当たりまえだ。この俺が あんな若造に負けてたまるか」
その若造に本気で張り合おうとしている氷河も、十分に若造の類だろう。
大人の瞬は、子供じみた氷河の対抗意識に呆れ、氷河の大人げのなさを たしなめようとしたのだが、その直前で、それもいいかもしれないと思い直したのである。
ちなみに、『それもいい』の“それ”は、“氷河の大人げのなさ”ではなく、“氷上のプリンスより氷原の貴公子が優れていることを、ナターシャの前で 氷河に証明させること”である。
バレエや水泳教室に ナターシャを通わせてやることはできないが、スケートなら肌を露出することはないし、スキーのように遠出をする必要もない。
ナターシャが始めるスポーツとしては最適なのだ。

「うん、スケートは いいね。ナターシャちゃん、スケート、やってみようか。神宮外苑に、とっても広い屋内スケートリンクがある」
早速 ネットで調べてみたところ、通年 運営されている屋内スケートリンクは、都内だけでも かなりある。
12月になれば、スカイツリーの下や豊島園で、冬季だけの屋外スケートリンクがオープンするようだった。

「わー、ナターシャ、スケートしてみたーい!」
ナターシャが すぐに乗り気になって、身を乗り出してくる。
その横で、氷河は、鼻高々の得意顔を むすっとした顔に差し替えてしまっていた。
「氷河、スケート嫌いだった?」
スキーは、まだ皆が青銅聖闘士だった頃、プロ並みに滑れることを証明してみせると豪語する氷河に引っ張られて、4人でスキー場に行ったことがあるが、そういえば、氷河がスケートの腕前(足前?)を自慢する場面に遭遇したことはない。
何十年も一緒にいるのに、ただの一度もない。
無論、氷河のことであるから、スケートの経験がなくても、滑れないことはないだろうと思ってはいたが。

「スピードスケートならともかく、フィギュアは……」
「アスリートじゃなく一般の人たちが 遊びにくるようなリンクでは、滑走は禁止されてると思うよ。スケート靴のレンタルもフィギュア用だけみたいだし」
「男がひらひらの服を着て、てれてれ踊るんだぞ、恥ずかしくないのか、ったく」
「氷河も踊ってたじゃない」
「踊っとらんっ !! 」
やたらと力のこもった氷河の怒鳴り声に驚いて、ナターシャが目を みはる。
瞬は すぐに笑顔を作り、ナターシャのために、氷上のプリンスの昨シーズンのエキシビジョンの動画を探してやった。
ナターシャがパソコンの前で、動画に見入り始めた頃を見計らって、氷河が瞬に耳打ちしてくる。

「実は、スケートをしたことがないんだ」
「僕だって、ないけど」
それは瞬とて同じである。
氷河の場合、問題なのは、
「スケートしたこともないのに、10回転くらい朝飯前だなんて 豪語したの」
という点。
それだけなら まだしも、
「できるだろう。一般人にできることが、俺にできないわけがない」
と居直る点だった。

『一般人にできることは アテナの聖闘士にもできる』という理論が成り立つなら、氷河(アテナの聖闘士)には、公務員も銀行員も務まるはずである。
しかし、事実はそうではない。
どう考えても、氷河は一般人を侮りすぎていた。

だが、だからこそ 瞬は、次の休日にナターシャを連れてスケートリンクに行くことを決めたのである。
アテナの聖闘士は 一般人にできることすべてができるわけではないという事実を、氷河に、身を持って学んでもらうために。
そして、ナターシャには、パパは何でもできるわけではないということを 知ってもらうために。






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