「ナターシャちゃん」
正直なナターシャを嘘つきにしないために、瞬は、目を丸くしてナターシャの話を聞いている各スケートクラブのスカウトたちの前から、彼女の身体を抱き上げ奪い取ったのである。
そして、スカウトたちはの相手を氷河に任せ、瞬は、離れた場所で ナターシャの説得に取り掛かった。

「ナターシャちゃん。氷河は5回転だって簡単にできるし、10回転も 朝ご飯前に飛ぶことができる。だから、なろうと思えば 世界チャンピオンにだってなれるよ。でもね。フィギュアスケートの選手っていうのは、世界中のいろんなところで開かれている大会に出るために、1年中、世界のあちこちを飛び回っているんだ。あの氷上のプリンスさんも、アメリアにカナダにフィンランド、ロシア、フランス、って、世界中を飛び回っていて、日本に帰ってこれるのは、日本で大会がある時だけなんだよ。氷河が世界チャンピオンになろうと思ったら、夏休みは ちょっとあるけど、その時以外、氷河はずっと おうちに帰ってこれなくなる。ナターシャちゃんは、それでも平気かな?」
「え……」

ナターシャは、世界チャンピオンというものは、電車に乗ってスケートリンクに行き、3分くらいリンクの上で飛んだり跳ねたりすればなれるものだと思っていたらしい。
瞬の言う世界チャンピオンへの道が あまりに過酷すぎて、ナターシャは言葉を失ってしまったようだった。
「ナターシャは……」
パパに世界チャンピオンになってもらうためには、ここで『平気じゃない』と言ってはいけないのかもしれない。
『寂しい』と言っては駄目なのかもしれない。
――と、ナターシャは迷ったようだった。

だが、嘘はよくないと、いつもマーマに言われている。
幼い子供らしくない葛藤が 嵐になって、ナターシャの心を揺らしている。
その嵐を静めてくれたのは、マーマの、
「僕は、毎日 氷河といられなかったら、すごく寂しいよ」
という言葉だった。

ナターシャの言いたい言葉。
ナターシャの正直な思いと同じ言葉。
その言葉に救われた気持ちになって、自分と同じ思いでいるマーマの首に、ナターシャは ぎゅっと しがみついていったのである。

「ナターシャも やだ。毎日 パパと会えないなんて、そんなの、ナターシャ、寂しくて泣いちゃう。パパは……」
「うん、氷河も、世界チャンピオンになるより、毎日 ナターシャちゃんと一緒にいたいと思ってるんだ。だから、氷河は もうすぐ、あのスカウトの人たちを追い払うよ」
「ほんと?」
「もちろん、ほんと」
ナターシャに こっくり頷いて、
「氷河。ナターシャちゃんは、氷河が世界チャンピオンにならなくてもいいって!」
瞬は、氷河に、ナターシャ説得完了の報告をした。

「そうか」
『そうか』という、ごく短く、素っ気ない3つの音が、心からの安堵と喜びの感情でできていることが わかるのは、その場に、瞬とナターシャしかいなかった。
各スケートクラブのスカウトたちには、そもそも、『(世界チャンピオンに)ならなくてもいい』という言葉の意味を正しく理解することができないのだ。
彼等にとって、“世界チャンピオン”は、“誰もがなりたいと願っているもの”。
しかし、氷河にとっては、“愛に満ちた今の幸福な暮らしを阻害するもの”。
価値観が ここまで違い、幸福の意味も 求める夢や希望の内容も ここまで異なる別の国の住人が理解し合うことは、一夕一朝で叶うことではあるまい。

氷河は彼等の価値観を否定したくなかったし、同時に、自分の価値観も尊重してほしかった。
可能な限り 波風を立てずに そうするために、氷河はスケートクラブのスカウトたちに、
「俺には 深刻な持病があって、残された 限りある時間を、できるだけ家族と共に過ごしたいと考えている」
と、真顔で、重々しい口調で、告げたのだった。
ちなみに、この場合、“真顔で”というのは、“わざわざ表情を作るのが面倒だから、無表情で”という意味。
“重々しい口調で”というのは、“明るく弾んだ声を作るのが面倒だから、抑揚のない声で”という意味である。

無駄に顔の造作の整った人間の無表情、無感動な声は、それを受け取る人間の心に、尋常でない威力、圧力、迫力を感じさせる。
彼等は まさか、氷河の深刻な持病が“瞬とナターシャが大好き病”で、氷河に残された 限りある時間が、“神ならぬ身の人間は いつか死ぬ”程度の時間だとは、考えてもいなかったに違いない。

いずれにしても、時間と金と手間をかけて育成した選手が、いつ 病で倒れるか わからない身となったら、彼等としても 氷河の5回転ジャンプに執着し続けるわけにはいかなかったのだろう。
氷河のマンションに集まっていた、各スケートクラブのスカウトたちは、気の毒そうな目をして氷河を見やり、無念そうに肩を落とし、三々五々に その場から散っていったのだった。


氷河は、どんな嘘もついていないのに、騙して お引き取り願ったような気がして、瞬は少々――否、かなり――心苦しかったのである。
その心苦しさも、瞬の腕から 氷河の腕に移動させたナターシャの、
「パパ、パパ。パパは ずっと、ナターシャとマーマと一緒ダヨ!」
という、切なくも喜ばしげな宣言の前に、あっさり霧散してしまったが。

ナターシャは、それ以降、氷河に“くるくる”は求めなくなった。
それでも、ナターシャが 時々MJGスケートリンクに行きたがるのは、自分が広いリンクを すいすい滑れることが楽しいから。
そして、スケートをすべったあとで入るカフェの、クリームたっぷりのキャラメルミルフィーユパンケーキが気に入ったからなのである。






Fin.






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