「ナターシャも、パパ、大好きー!」
二人だけでは、明日の待ち受け画面にするベストショットを選ぶことができなかったのか、あるいは、マーマが 自分を見てくれていないことに機嫌を悪くしたナターシャが マーマの注意を引こうとしたのか、はたまた、瞬が 自分を見てくれていないことに機嫌を悪くした氷河が 瞬の気を引こうとしたのか。
ともかく、氷河の右腕に抱きかかえられていたナターシャが、瞬と継家女史の間に 大きな声で割り込んできたのだ。

継家女史は、年単位で瞬のストーカーをしていただけあって、瞬の娘と その父親のことも知っていたらしく――だが、瞬の娘と その父親が 二人揃って独占欲が強いことは知らなかったらしく――自分が彼等の不興を買った可能性に思い至った様子は見せずに、ごく素直に、そして率直に、ナターシャの主張を受け入れた。
「私も ナターシャちゃんとおんなじですよ。美しく優れたパパ。パパに認められたくて、パパに褒めてもらいたくて、一生懸命 頑張ってきた。なのに、パパは最初から、私に期待なんかしていなかったんです」

彼女はごく素直に、そして率直に、自身の現況と思いを吐露しただけで、瞬たちから同情や慰撫の言葉を得ようとしていたわけではなかったのだろう。
自分が 聞く人に そうとられかねない弱音を吐いてしまったことに気付いた彼女は、おそらく 自身の弱音をなかったことにするために、突然 話の方向を180度――もとい、150度ほど――変えてきた。

「瞬先生のストーカーを始めて2年になりますけど、氷河さんを間近で見るのは、これが初めてです。確かに 氷河さんには、『こんなに綺麗なのに、男性なんだそうですね』とは言えないですね」
「ええ」
瞬は微笑んで頷いたが、氷河は『いったい この女は何を言っているんだ』という顔を、ナターシャは、『いったい このお姉ちゃんは何を言っているんだろう?』という顔を、継家女史に向けることになった。
そんな二人の様子を見て、女史は 大いに反省したらしい。
「すみません。私の中には、『女性は男性より綺麗なもの』という決めつけがあったんです。そんなはずないのに。これじゃあ、女は能で大成しないって決めつけてる能楽界の男共と同じだわ」

女史が 再び、瞬の前で腰を折る。
彼女は、怒りも後悔も反省も はっきり表に出すタイプの人間らしい。
一人の人間として見れば、それは好ましい性質だが、自制の芸である能には、その開け広げな性質は 女性であることよりも不向きなことなのではないかと、瞬は思ったのである。
無論、一人の人間の、舞っている時の性質や態度と日常生活における性質と態度が、必ずしも 同じ物とは限らないだろうが。
瞬が そんなことを思っていたところに、
「ノウってナニー?」
という極めて根本的な質問を、ナターシャが投げかけてきた。

その質問に、瞬は 少々慌ててしまったのである。
まだ若い――若すぎるほどに若いとはいえ、その人生の ほぼすべてを能に捧げてきた人の前で、『能ってナニー?』は、あまりに悲しい疑問なのではないかと、瞬は慌てたのだ。
ナターシャの歳では、そもそも観能が許されないので、ナターシャが能の何たるかを知らないことは 致し方のないことではあるのだが。
「能っていうのは、日本に昔からある芸能で、ミュージカルのようなものだよ」
「日本に昔からある芸能? それは、カブキやキョーゲンやブンラクとは違うの?」
ナターシャが能の何たるかを知らないことは 致し方のないことではあるのだが、問題は、ナターシャが 歌舞伎や狂言や文楽は知っているということだった。
瞬は、心中 ひやひやである。

「ん……ちょっと違うかな。狂言に似てるんだけど、お能は、お面をつけるんだよ」
「女聖闘士ダネ!」
「えっ」
それまで、ナターシャが能を知らないことには ほぼ無反応だった継家女史が、初めて 反応らしい反応を見せ、首をかしげる。
『おんなせいんと』が、彼女には初めて聞く言葉だったのだろう。
「女聖闘士は、女であることを捨てて、世界の平和を守るために戦うんダヨ。デモ、ナターシャは捨てられないノ。ナターシャは いつまでもパパの可愛いナターシャでいたいカラ」

幸い、継家女史は、『女聖闘士』を、子供向けアニメの登場人物か ゲームの用語だと思ってくれたらしい。
『オンナセイントってナニー?』という質問が彼女から発せられることはなかった。
「私は……」
女史は どうやら、『女であることを捨てる』というフレーズの方に引っ掛かったようだった。
なにやら考え込む素振りを見せ、それから 気を取り直したように顔を上げる。

「すごいね。ナターシャちゃん、歌舞伎や狂言や文楽を知ってるの?」
「知ってるヨー! テレビでやってるもん。ニッポンポポンでアソボダヨ」
「え? にっぽんぽぽん?」
継家女史が引っ掛かったのは、女聖闘士ではなく、ニッポンポポンの方だった。
瞬は、ほっと安堵の胸を撫でおろしたのである。
「そういう幼児番組があるんですよ。歌舞伎や狂言、文楽の著名な方々が、子供たちに日本の伝統芸能を楽しく紹介する番組なんです。ナターシャちゃんは、マンサイお兄ちゃんとカンジューローおじいちゃんが大好きだもんね」
「ウン! マンサイお兄ちゃんは、面白くてカッコいいヨー。カンジューローおじいちゃんは超クールで、お絵描きが すごく上手いんダヨ!」
「へえ……」

マンサイは狂言の、カンジューローは文楽(人形浄瑠璃)の人形遣いの、古くから続く名跡である。
女史は感心したような声をあげ、
「宗家を継ぐとか継がないとか、そんな何十年も先の遠い未来のことに 汲々とするのはやめて、私もまず、そういう活動に取り組んで、ナターシャちゃんみたいな子供たちに能を知ってもらうところから始めてみようかな」
と、呟くように言った。
彼女は、至って前向き かつ行動的な性格らしく、思いついたことを 早速 行動に移してみせた。
氷河に抱っこされているナターシャに、能の面白いところを説明し始める。

「ナターシャちゃん。能は お面をつけるから、若い人でも お年寄りを演じられるのよ。男の人でも 女の人を演じられる。優しい顔の人でも、鬼の役を演じられるの」
ナターシャは、“ニッポンポポンであそぼ”で素地ができているので、理解が速い。
継家女史の説明で、ナターシャは即座に 能の面白さを理解した。
「ノウの人は、女を捨てて、男も捨てるんダネ」
「ナターシャちゃん、鋭い」

本当に鋭いと、継家女史は思ったようだった。
幼い子供を、幼い子供と侮ることはできない――と。
大人相手の舞台に立てば、そのたびに文化芸術の賞を贈られるような各界の名跡たちが、深い考えもなく 幼児相手の番組に出演するわけがない。
子供たちに興味を持ってもらえなければ、家や流派に固執している伝統芸能の世界は先細りしていくばかりなのだ。

「ナターシャちゃんは、ほんとにすごい。可愛いだけじゃなく、感性が豊かっていうか、芸術的素養に恵まれてるっていうか」
「ゲージュツテキソヨーって、ナニー?」
芸術的素養に恵まれている幼女は、芸術的素養が何なのかを知らない。
「考え方や感じ方が、自由で素直で美しいっていうことだよ。ナターシャちゃんは、センスがよくて、見た目だけでなく 心も可愛らしいって、お姉さんは言ってくれてるの」
先入観や悪い意味での常識に囚われる前の子供は、ナターシャに限らず 誰もが 自由な感性や発想力に恵まれているものだが、我が子が褒められると やはり嬉しい。
芸術的素養の意味を知って笑顔になったナターシャ以上に、瞬は口許を ほころばせた。

そして、おそらくは、
「おまえの父は、おまえに期待していないのではなく、おまえに 幸せになってほしいと願っているだけなのかもしれないぞ。言っては何だが、能なんて、古くて硬そうな伝統芸能の中でも 特に古くさくて難解で、外部に向かって開かれているイメージがない。そんな伝統芸能の一門の宗家を継いだ人間が どんな苦労をすることになるのか、おまえの父が誰よりもよく知っているんだ。弟に宗家を継がせるという言葉を、おまえの父が おまえの父として言ったのか、一門の宗家として言ったのか、よく考えてみた方がいい」
それまで何も言わず仏頂面でいた氷河が 突然 口を開いたのも、ナターシャを褒めてくれた見る目のある人間への感謝の気持ちの表われだったろう。

「お父さんが……」
一人の娘の父親の視点に立った氷河の助言は、継家女史には 思いがけないものだったらしい。
彼女は一瞬 大きく目を見開き、それから自失したように その場に棒立ちになった。
そして、しばしの沈黙。
最後に彼女は、散らかっていた部屋の片付けを8割方 終えて さっぱりしかけたような微笑を浮かべた――否、その微笑は自然に浮かんできたのだ。

「私も、娘として 父に愛され認められたいのか、一人の舞い手として 宗家に認められたいのか、よく考えてみます。宗家だの能の才能だの何だのと大層なことを言いながら、本当は私、ただのファザコンだったのかもしれない」
もし そうなら、これは芸や家の問題ではなく、家族間の愛情の示し方と捉え方のすれ違いでしかない。
そういうことだと認識した上で対応すれば、もつれ絡んだ現況を正すことは さほど難しいことではないのかもしれなかった。
「ありがとうございます! すっきりしました!」

晴れやかな笑顔で 礼を言ってくるところを見ると、どう考えても、彼女を悩ませていたのは、芸術上の問題ではなく、一門の継承問題でもなく、彼女の父親の愛情の問題だったのだろう。
誰が継家流の宗家を継ごうが 継ぐまいが、彼女が宗家になれようが なれなかろうが、そんなことは、彼女にとって、実はどうでもいいことだったのだ。
彼女が彼女の父の愛を感じ、信じていることができさえすれば。


「で、つまり、何だったんだ、あれは」
にこにこしながら ナターシャに手を振って、ほとんどスキップとしか言いようのない足取りで ちびっこ広場を出ていく継家華子女史の後ろ姿を見やりながら、氷河が呆れたように呟く。
『何だったんだ、あれは』と問われれば、『未来のナターシャちゃんの姿だよ』としか答えようがない。
「ナターシャが ゲージュツテキで可愛いってー」
ナターシャは、嬉しそうに パパの首にしがみついている。
パパの前で ナターシャを褒めてくれる人は、どれほど不審人物でもいい人なのだ。

ファザコンというのは、かなり厄介な病気のようだった。
神話の時代から人類を悩ませてきた深刻な病だというのに、21世紀の今になっても、ファザコンの根治を期待できる治療法は確立されていない。
つまり、ファザコンは、現時点では 永遠に進行性の 不治の病なのだ。
特効薬の開発が待たれるところである。






Fin.






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