「ごめんなさいっ」 筋肉は硬いものではないのだと、知っていたはずのことを改めて思い知る。 それほど蘭子の身体は やわらかかった。 それほど深く、蘭子は氷河と瞬の前で腰を折った。 だが、氷河と瞬は 彼女を責めるわけにはいかなかったのである。 彼女が氷河の雇い主だからではない。 氷河と瞬には、そもそも蘭子を責める気がなかった。 現況の責任が彼女にあるとは思えなかったから。 もし ほんの数十秒間、彼女がナターシャから目を離したことが、ナターシャが今 ここにいないことの理由だというのなら、それは蘭子でも、蘭子でなくても、避けられない事態だったろう。 現況の責任は、ナターシャの養育に 余人の協力を仰いでいるナターシャのパパとマーマの上にある。 今から2時間前。 氷河は6時半の定刻に向けて、開店準備中だった。 都心の某ホテルで開催された研究会に出席した瞬は、氷河の店でナターシャを受け取るべく、電車で 移動中。 パパのお仕事の邪魔にならないように、お行儀よく椅子に座って 静かにしていたナターシャを、蘭子が厚意で スカイツリーの下にあるショッピングモールに連れ出してくれた。 ナターシャは そこで、色とりどりのアイスクリームやソフトクリームやフルーツを 好きに組み合わせて、カップに自分だけのオリジナル・アイスクリームをつくることのできる 店に引っ掛かった――のだそうだった。 ナターシャは、アイスクリームを食べたかったというより、自分だけの特製アイスクリームを作りたかったのだろう。 その店には、客が作ったアイスクリームの写真を、“〇月の傑作”として紹介するコーナーがあり、ナターシャは そこに自分の作品の写真を飾りたいという野心を抱いたらしい。 アイスクリーム、ソフトクリーム、フルーツに各種トッピング材料――を、客に少しでも多く使わせようとする店の戦略に、ナターシャは見事に はまってしまったのだった。 もし“12月の傑作”に選ばれた時には、作者の名を付して 作品の写真を店頭に貼り出すので、その写真使用の同意書に、ナターシャは ちゃんと自分で『なたーしゃ』とサインをした。 ひらがなの『な』と『や』を正しく書けるようになったナターシャは、最近 自分の名を ひらがなで書くのが好きなのである。 採用された時に、優待券を送付する住所だけはナターシャには書けないので、蘭子が代筆。 「ナターシャちゃん、先に席に座ってアイスを食べてて」 蘭子が そう言って、同意書に ヴィディアムーの住所と電話番号を書くのに、30秒ほど。 ペンを置いた蘭子が、席に着いてアイスクリームを食べているはずのナターシャを探すべく 顔を上げた時、ナターシャの姿は店内になかった。 30ほどあるテーブル席のどこにも、ナターシャは座っていなかったのである。 ナターシャが自分の作った作品を持って、店内の窓際の席に向かって歩き出したのを、蘭子も店員も見ていた。 店内にある30ほどのテーブル、そのうち 20は客で埋まっている。 出入り口は一つ。 蘭子と店員は、席に着いていた客たちに確認したのだが、誰もナターシャが席に着いたところを見ていなかった――店を出ていくのも見ていなかった。 衆人環視の中、ナターシャの姿は忽然と、文字通り 煙のように消えてしまったのだ。 誰かがナターシャを さらったのなら、電光石火の――否、光速の早業である。 聖域の敵対者――異世界の聖闘士や聖闘士に準ずる力を持つ者なら、瞬時に幼児を一人 さらうことは可能だろうが、そういった者たちは、幼い子供を人質に取って 自らの戦いを有利に運ぼうとするような、けちくさい真似はしないだろう。 ナターシャの失踪(消滅?)が一般人――“聖闘士ではない”という意味での一般人――の手によるものであるなら、その一般人は、誘拐のプロである。 そうと考えるしかない状況だった。 カップの中に、アイスクリームディッシャーで半球状にされた ソーダ味の水色のシャーベットと いちご味のピンク色のアイスクリーム、オレンジ色でオレンジ味のアイスクリームが、寄り添うように盛られている。 その上に、星の形のチョコレート。 イチゴのスライスを重ねて作ったバラの花が、その周囲を飾っている。 ナターシャの野心作にして自信作は、おそらく、彼女のパパとマーマと彼女自身を表現したもの。 その写真だけを残して、ナターシャは、彼女の作ったアイスクリームと共に、どこかに消えてしまったのだった。 ナターシャの不在を認めた蘭子は、元警官だけあって、無駄に時間を費やすことはしなかった。 その時 店内にいた客や店員全員に 不審人物の姿を見ていないかどうかを聞いてまわり、店の出入り口を映している監視カメラの映像も確認した。 だが、不審人物の姿を見たという証言はなく、監視カメラの映像にも、不審な人物の姿はなかった。 出で立ちは ありふれた外国人観光客なのだが、今ひとつオリジナル・アイスクリームを作って喜ぶタイプとは思えない二人の男性が 店内に入るのを見たような気がするという証言が、2組の客から寄せられたのだが、そんな男性たちは監視カメラに映っていなかった。 客の記憶違いか、その二人が たまたま(あるいは、意識して)監視カメラの死角を狙って移動したために そういうことになったのか。 事実がどうなのかは わからないが、いずれにせよ、奇妙なことといえば それくらいのもので、ナターシャが いつ、なぜ、どのように消えたのかを探る手掛かりは皆無といっていい状況だった。 |