カミュがやってきたのは、ちょうど マドレーヌが焼き上がった時だった。
小麦色とキツネ色の中間の 絶妙な色合い。
素晴らしい焼き上がりである。
ナターシャは、それを確かめ、安心して、とびっきりの笑顔で おじいちゃんのお迎えに出たのである。

マーマに教えてもらった通り、ナターシャが『こんにちは』だけでなく『いらっしゃいませ』を言うと、カミュは目を細めて、ナターシャの礼儀正しさを褒めてくれた。
ナターシャは、それが とても嬉しかったのである。
ナターシャが カミュおじいちゃんに褒められると パパが喜ぶ――と、ナターシャはマーマに教えてもらっていたから。
ナターシャが ちらりとパパの顔を窺うと、マーマが言っていた通り、そして、ナターシャの期待通り、ナターシャの礼儀正しさを褒められたパパは、自分が褒められたのより嬉しそうに 唇の端を微笑の形にしていた。
それで ナターシャは、心も足取りもうきうきと浮き上がり、弾むことになったのだった。


ナターシャは、カミュおじいちゃんの手を握って、彼をリビングルーム兼 客間に案内した。
キッチン・ダイニングと客間は 完全に別フロアなのだが、バターの匂いは どんな壁もドアも通り抜ける。
「いい匂いがするね」
客間の三人掛けのソファに腰を下ろしたカミュは、それが 当たりまえのことのように 自分の隣りに並んで座ったナターシャに話しかけた。
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに 瞳を輝かせて、ナターシャが大きく頷く。

「あのね。ナターシャは、マーマと一緒に、おじいちゃんのために、フランスのお菓子を作ったんダヨ!」
「私のために?」
「ウン。マドレーヌはフランス代表のお菓子だから、ナターシャが おじいちゃんに作ってあげたら、きっと喜んでくれるよって、マーマが教えてくれたノ」
そのおじいちゃんの肉体年齢がパパより若いことを、ナターシャは知らない。
だが、フランスが 地球のどこにあるのかは、ナターシャは ちゃんと勉強済みだった。

「ナターシャは、貝殻の型にバターを塗るお手伝いをしたんダヨ。それから、型に材料を入れて、オーブンで、焼けるのを見張ってたノ。ナターシャは、フィナンシェとマドレーヌの違いも知ってるヨ」
「それはすごい。まだ こんなに小さいのに」
「マーマに教えてもらったノ。ナターシャが お利口な いい子でいると、パパが おじいちゃんにナターシャを自慢できて、パパが喜ぶんダヨ。ナターシャが、パパやマーマに いい子だって褒めてもらえると嬉しいのとおんなじように、パパはおじいちゃんに いい子だって褒めてもらえると嬉しいんだっテ」

センターテーブルを挟んだ向かいの席で、氷河はナターシャの家庭の内情暴露話に笑顔を引きつらせ、為す術なしで 固まっていた。
今日のカミュの家庭訪問のために、ナターシャは昨日から“おじいちゃんの おもてなし”の方法について、様々なことを瞬に教えてもらっていた。
そして、ナターシャは、自分が覚えた知識を皆に披露するのが大好きな少女だった。
せっかく覚えた知識は使わなければ意味がないし、よい知識は 皆が知っていた方がいいに決まっている(と、ナターシャが思う)から。

「それも、アンド……マーマが教えてくれたのかな」
「ウン。マーマの言う通りにしていれば、ナターシャは いつまでもパパの可愛いナターシャでいられて、パパはナターシャのカッコいいパパでいられるんダヨ」
「なるほど」
カミュの『なるほど』は、『この家を取り仕切っているのは、私の弟子ではなく、現乙女座の黄金聖闘士だということが よくわかった』というほどの意味だったろう。
それは紛う方なき事実で、ナターシャは嘘を言っておらず、かつ 悪いことを言っているわけでもないので、氷河はナターシャを『家庭の内情を人に話すのをやめろ』と制止することもできない。

ナターシャの暴露話を やめさせたければ、氷河が別の話題を持ち出せばいいだけのことなのだが、それができたら、氷河の店が 口コミサイトで、『ヴィディアムーは、バーテンダーの話術ゼロ。正しく酒だけを提供する店。★3つと半分』などと評されたりせずに済んでいたことだろう。
弟子の家庭の真実の姿を知りたいカミュと、自分の知っていることを話したくて たまらないナターシャの間に、口下手な――もとい、クールで寡黙な――氷河が割り込んでいくことは、ほぼ不可能だった。

「氷河は、ナターシャちゃんの どんなパパなのかな」
「パパは、マーマの言うことを よく聞く、とっても いい子のパパダヨ。それで、光が丘公園で いちばんカッコいいパパなの。パパはナターシャといっぱい遊んでくれるヨ。タカイタカイも、飛行機ぶーんも、でんぐり返ってぽんもしてくれるヨ。ナターシャは、パパ登りもするヨ。公園で会うお友だちは、ナターシャのパパがカッコよくて、ナターシャといっぱい遊んでくれるから、みんな、ナターシャのこと、羨ましがってるんダヨ」

ナターシャにとって、氷河は世界一のパパだった。
ナターシャは、パパを喜ばせるために、パパがどんなに素晴らしいパパなのかを おじいちゃんに報告していたし、だから 当然、パパとおじいちゃんは 自分の報告を喜んでいるだろうと思ってもいた。
実際に 氷河が ナターシャのパパ礼賛を喜んでいたかというと、それは実に微妙なところではあったのだが。

喜んでいないわけではなかったのである。
ナターシャのパパ礼賛は、ナターシャの家族が幸福であることの報告に他ならなかったから。
もちろん、全く喜んでいないわけではなく、それは必要な報告だとも思っていた。
ただ――命をかけて地上世界の平和を守るアテナの聖闘士を育てたつもりでいるだろうカミュが、自分の弟子が完全無欠のマイホームパパになっていることを知って、落胆し失望するのではないかという憂いのために、この状況を手離しで喜べずにいるだけで。

氷河が地上の平和を守るために戦う闘士として 立派に その務めを果たしていることと、氷河が幸福でいること。
カミュが、そのどちらを、より強く望んでいるのか。
その正答を知らないのは、もしかしたら、その場にいる人間の中で氷河一人だけだったかもしれない。

「ナターシャちゃんは、パパが好きなんだね」
「大好き! パパは世界で2番目に強くて、いつもナターシャを守ってくれるんダヨ!」
「そうか。ちなみに、世界で いちばん強いのは――」
「マーマ !! 」
「ははは」
どうして そんな訊くまでもないことを訊いてしまったのか。
カミュは、娘の前で父の沽券を保ってやるためにも、それは 訊かずにいてやるべきだったかと、胸中で 暫時 悩んだのだが、それは取り越し苦労のようだった。
パパとマーマのどちらが1番で どちらが2番なのか。
そんなことを、ナターシャは全く気にしていないようだった。

世界で1番強いのと2番目に強いのは、ナターシャのパパとマーマ。
世界で1番綺麗なのと2番目に綺麗なのも、ナターシャのパパとマーマ。
トップ2が ナターシャのパパとマーマなのだ。
どちらが1番なのかということは、あまり問題ではない。

そこに、カップと お茶の入ったポットを、瞬が運んでくる。
カミュの隣りに座っているナターシャに、瞬は笑いかけた。
「マドレーヌは、ナターシャちゃんが自分で持ってきたいでしょう? 持ってきてくれるかな。キッチンに置いてあるよ。転ばないように、気をつけて、ゆっくりね」
「そうだったヨ! マドレーヌダヨ!」
おじいちゃんに褒められることと パパを喜ばせることに気を取られ、肝心のマドレーヌを忘れていた。

「手伝おうか?」
というパパに、
「パパは座って待ってて!」
と命じて、ナターシャはキッチンに向かった。
今日のマドレーヌは、ちゃんと作れるとパパに宣言して、おじいちゃんのために、ナターシャが作ったもの。
ナターシャが おじいちゃんに出してあげなければならないものなのだ。






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