氷河の故国が、どんなミサイル迎撃システムにも迎撃できない 極超音速ミサイルの配備を発表した。 かの国は、ほんの数ヶ月前に、津波を引き起こすほどの力を有する超大型原子力推進核魚雷の映像を公開したばかりだったというのに。 かの国に対抗して、別の某超大国が、『核兵器の廃止は現実的でない』と言って、中距離核戦力全廃条約を離脱。 「核兵器を使うのが現実的だと、本気で思っているのかな……」 それが、そのニュースに触れて 最初に瞬が思ったことだった。 「どっちもどっちだな。どっちも呆れるほど馬鹿だ」 氷河が嘆かわしげに首を振る。 アテナとアテナの聖闘士が守ろうとしている者たちの、この愚行。 最近、新兵器の開発スピードが 加速度的に増している。 「もはや 聖闘士がどうこうという次元を超えているな。核の脅威、おまえのチェーンで防げるか」 「僕のチェーンは、そういう一般人の作り出した物理的脅威は かえって防げないんだ。次元が違う。たとえば、氷河が僕を叩こうとしたら、僕は それを防ぐことができる。でも、氷河が僕を叩こうとしている絵を描くことは防げない。そういうことだよ」 神や天に属する力に抗するのが、聖闘士の力――小宇宙の力。 空を裂き 大地を割るといっても、聖闘士の技の原動力である小宇宙は、大雑把に分ければ精神力。 そして、各種兵器は人間が作ったもの。神や天ではなく、人間や地に属するもの。 小宇宙は、核分裂連鎖反応や核融合反応やレーザー等の物理的な力とは、種類が違うのだ。 「聖闘士の力は、人間を守るためのもので、人間が作ったものを破壊する力じゃないから」 「俺たちは、神は倒せても、人間は倒せないというわけか」 「うん。多分、それをしてしまったら、僕たちはアテナの聖闘士ではなく、ただの人間兵器になってしまうんだ」 瞬の言葉に反論せず――おそらく 賛同しているので――氷河は、嘆きの息を洩らした。 氷河の望みは、ナターシャのために この世界が平和であること――である。 その平和を乱す者は、神でも人間でも倒したいところだろうが、こればかりは仕方がない。 氷河は、ナターシャの父親が 人間兵器であってはならないと考えているのだ。 「神々は、神話の時代から どんな変化も進化もなく、その大多数が人類を蔑んでいるが、人間の方は――人間が作る武器や兵器の方は進化しすぎだ。ほんの数万年前までは、敵に向かって石を投げつけるのが せいぜいだったのに、今では一瞬で地球を何度も滅ぼせるほどの兵器が、世界の至るところで出番を待っているんだからな」 それは恐ろしいことである。 人間たちは、自分たちが生きている世界を壊すための道具を せっせと作り続けているのだ。 人類が皆、消滅願望という危険な病に取りつかれているとしか思えない。 氷河の嘆息が、瞬に伝染した。 「世界を変えた三つのリンゴって知ってる?」 壁のプロジェクタースクリーンに映し出していた動画ニュースを消し、瞬は、ソファの背もたれに身体を預けた。 三人掛けのソファ。 隣りに掛けていた氷河は、ニュースをチェックする前から、身体だけは だれていた。 「紅玉とフジと王林か?」 と思ったら、答えも だれている。 「紅玉が世界を変えた話は聞いたことがないね。アダムとイブのリンゴと、ニュートンのリンゴ。そして、ジョブズのリンゴだよ」 「エリスの黄金のリンゴは入っていないのか」 氷河の その一言は、茶々でも 混ぜっかえしでもなかっただろう。 ギリシャ神話でリンゴといえば、まず それが最初に思い浮かぶ。 氷河は決して ふざけたわけではなく、それは至って真面目な質問だったに違いない。 ギリシャ神話のリンゴの方が、ユダヤ教やキリスト教のリンゴより、はるかに長い歴史があるのだから。 「残念ながら。ううん、幸いにも、かな。アダムとイブのリンゴのせいで楽園を追放された人間は、アニミズムを捨て 有神論を採用するようになった。ニュートンのリンゴで万有引力を発見した人間は、神を捨て 科学革命による農耕社会から工業社会への変換を実現した。ジョブズのリンゴは、スティーブ・ジョブズが設立したアップル社のリンゴ。情報革命による工業社会から情報社会への転換の象徴だね。神を殺した人類は、人工知能という独立した意思と命を造り出し、自分自身が神になろうとしている。イスラエルの歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、そんな人間を神人――ホモ・デウスと呼んでいるそうだよ」 「神人とはまた傲慢な。邪神が人類を滅ぼすまでもなく、思い上がった人間が、自分の作った兵器で 地上世界を滅ぼしそうだな。あるいは、俺たち人間が神に抵抗しているように、人間が作った機械たちが 人間への反抗を始めるか。AIが人類に対して反乱を起こしたら、人類など ひとたまりもないぞ。敵は、人間の ありとあらゆる個人情報を握り、しかも、それらすべてが ネットワークで一つに繋がっている。自分の利益ばかり考えている人間とは違って、機械の団結力に揺るぎはないだろう」 被創造物としても創造者としても、人類は脆弱な存在だというのが、氷河の意見らしい。 瞬も、その意見に反対する根拠は持っていなかった。 「神を滅ぼして 神人になろうとしている人類も、結局 機械に滅ぼされてしまうということだね。アダムも ニュートンも ジョブズも、この世界の消滅を望んでいたわけではなかったろうに、彼等のリンゴは どれも、世界と人類の滅亡に繋がっていたのかな……」 あらゆる変化、成長、進化が、滅亡のための準備運動にすぎなかったとは思いたくない。 それで 人間が機械に滅ぼされてしまったら、結局は、人間を滅ぼそうとしている神々が正しいことになる。 それでは、アテナの聖闘士と その戦いが無意味だということになってしまうのだ。 消沈した瞬の肩に、氷河が腕をまわしてくる。 彼は、そして、“楽観”という美徳に あまり縁のない乙女座の黄金聖闘士の肩を抱き寄せた。 「まあ、普通は、リンゴを食いながら、そんなものを望んだりはしないだろうな。『たとえ明日 世界が滅ぶとしても、今日 私はリンゴの木を植える』は、カソリックを滅ぼそうとしていたルターの言葉だ」 「うん」 氷河が新たに持ち出してきたリンゴ――まだ実の生らないリンゴの苗木。 今は まだ細く弱々しいリンゴの若木の姿を脳裏に思い描き、瞬は微笑んだ。 たとえ どれほど小さく頼りないものであっても、希望があれば、人間は生きていける。 氷河が持ち出してくれた新たなリンゴによって、瞬は、被創造物としても 創造者としても脆弱極まりない人類という種は、非常に諦めが悪く、しぶとい存在であることを思い出すことができたのである。 そこに。 「おリンゴ、食べるのっ !? ナターシャも見たいー!」 玩具のお片付けを済ませたらしいナターシャが飛び込んできた。 氷河と瞬がソファに並んで座っているのを見て、ナターシャは、自分の場所を どこに確保すべきかを悩んだようだった――仲良く並んで お座りしているパパとマーマの間に割り込んでいくのは 気がひけたらしい。 氷河は、瞬との間に ナターシャを割り込ませないために、ナターシャに向かって、両手を差しのべた。 「一人でオカタヅケができたのか? ナターシャのリンゴは、『食べたい』じゃなく、『見たい』なのか」 パパの意図を正確に読み取ったナターシャは、氷河と瞬の間ではなく、氷河の膝の上に飛び乗り、“一人でオカタヅケできる いい子のナターシャ”をアピールした。 「オカタヅケ、一人でできたヨー! おリンゴはね、ナターシャは、おリンゴ 食べるのも好きだけど、おリンゴのスワンを作るのを見るのが大好きなんダヨ」 「リンゴのスワン? 何だ、それは」 「リンゴの飾り切りだよ。ナターシャちゃんは、うさぎリンゴより、スワンのリンゴの方が好きなんだよね」 リンゴで白鳥。 どうすれば そんなものができるのか、頭の中で、氷河はイメージを結ぼうとしたらしい。 うまくイメージできずに、氷河は眉根を寄せたようだった。 「大好きー。マーマは、おリンゴとダイコンの魔術師ダヨ」 「飾り切りか。俺も、カクテルのデコレート用に木の葉切りくらいはできるが」 「パパもできるのーっ !? 」 マーマだけでなくパパも おリンゴの魔術師だった事実を知らされ、ナターシャは興奮気味。 頬を紅潮させるナターシャに、今日 その証明をすることはできないと知らせることが、瞬は、少々 心苦しかった。 「氷河も できるけど、今日は おリンゴがないから、明日ね。明日、一緒に、真っ赤なおリンゴを買いにいこう」 「おリンゴないのー?」 「うん。ないんだ」 リンゴがないのにリンゴの話をしていたのかと、ナターシャは、不思議そうな目をして、氷河と瞬の顔を交互に見上げてきた。 |