氷河は、もちろん反省などしていない。 反省すべきは、職業で人間を差別してくれた 某有名幼稚園の面接官の方だと考えている。 その点は、瞬も氷河と同意見だった。 二人の人間の合意のみに基づいて成立する婚姻関係に、玉の輿も逆玉の輿もない。 幼い子供もいる家族面談のバーテンダーで、そんな言葉を口にした面接官は、その人間性に問題を抱えていると思う。 とはいえ、氷河にも問題がないわけではない。 喧嘩を売る言葉と承知の上で 売り言葉を買ってしまうのは、あまりに大人げがない。 それも、幼い子供のいる場所で。 唯一の救いは、ナターシャが、『面談室での大騒ぎは、パパがカッコよすぎるから起こった』という、ある意味 正鵠を射た理解をしていることだけだった。 「多分、不合格だと思います。ご期待に沿えなくて、申し訳ありません。沙織さんに お時間が取れるようでしたら、明日にでも直接 伺って、お詫びをしたいのですが……」 何を置いても、沙織に詫びを。 某有名幼稚園の お受験の経緯を、まず電話で報告した瞬への沙織の答えは、 「まあ、ほほほ」 だった。 電話の向こうで、彼女は 心から楽しそうに笑った。 まるで、こうなることこそを期待していたかのように。 そして、『詫びに来る必要はないが、もし今後 某有名幼稚園から接触があったなら、その接触を拒まないように』との指示。 そう言えば、魔鈴が、試験前に、『アテナが――おまえたちに 絶対 合格してほしいというわけではなさそうなんだが、それなりに いい成績は収めてもらいたいようなんだ』と、微妙な含みを感じさせることを言っていた。 どうやら沙織には、某有名幼稚園のお受験の完璧な合格とは別の目的があり、氷河の失態は その目的の遂行の支障にはならず、ゆえに 氷河のやらかしに さほど立腹してはいないらしい。 瞬は、そのことには、ひとまず ほっと安堵したのである。 むしろ 沙織は、氷河の面談でのやらかしは 最初から織り込み済みだったのかもしれなかった。 「もともと、合格しても入園するつもりはなかったんだけど、不合格になったことを ナターシャちゃんには言いたくないんだ。筆記テストは ばっちりだったし、実技も上手にできたし、面接も楽しかったって、ナターシャちゃんは 自信満々だから。不合格だったなんて言ったら、ナターシャちゃんは がっかりする――ううん、パニックに陥っちゃうんじゃないかって、ちょっと心配してるんだ」 賭けの勝敗を気にして、お受験の首尾を確認にやってきた星矢と紫龍には、ありのままを報告し、 「氷河のせいで、ナターシャは不合格になったんだ。その現実を教えてやるのも、親の務めなのではないか」 「瞬の良識も、氷河の非常識には勝てなかったかあ」 という、今更ながらの有難いコメントを頂戴したのである。 星矢たちは、ナターシャの落胆やパニックについては、 「おまえ等がついてれば、大丈夫だろ」 と、至極 楽天的だった。 状況が一変したのは、お受験から1週間後。 某有名幼稚園から合否の打診(合否の連絡ではない)の電話が入った時だった。 某有名幼稚園の受験担当理事からの格別の指示で電話をかけたという女性職員 曰く、 「お嬢様は、筆記試験は、言語性テストも非言語性テストも受験生中トップの成績で、ミスもなく、ほぼ完璧でした。はきはきしていらして、表現力もある。ご両親の愛情も 深く優れたものと、我々は拝察いたしました。ですが、お父様のご職業と人間性に問題がないとは言いきれません。とはいえ、お嬢様の才能は捨て難い。そこで……当園で話し合った結果、500万の寄付で合格とさせていただこうということになったのですが、いかがなさいますか。才能ある お嬢様の将来への投資と考えれば、決して法外な額ではないと思いますが」 沙織の『接触を拒まないように』の指示は このことだったのだと察し、瞬は すぐに電話の録音スイッチを入れた。 オープンにした電話の音声を聞いて、氷河が眉を吊り上げている。 『騒がないで』と、視線と手で 氷河を制してから、瞬は穏やかな声で 某有名幼稚園からの提案に応じたのである。 こうなることは察していた。むしろ期待していた。魚心あれば水心。――と、言わんばかりに落ち着いた口振りで。 「大変 結構な お申し出、どうもありがとうございます。実は娘にはスポンサーがおりまして、そちらに融資を頼もうと思いますので、書面で納付の方法を お知らせ願えますか。口座振り込みでしょうから、振込口座番号と口座名義人、金額と、分割払いは可能かどうか等。今は、振込限度額もあって、一定額以上の預金の移動には銀行も目を光らせていますし、贈与税等、法的に問題のないように処理したいので」 「承知いたしました。賢明な ご判断です。お嬢様のためにも、この件は くれぐれも口外なさいませんよう、ご注意願います」 「もちろんです」 もちろん口外などしない。 寄付金を納める気もない。 後日 送られていた寄付金の納付要項は、封も切らずに沙織に手渡した。 沙織が欲しかったのは、この書類。 某有名幼稚園側も お受験の首尾に 多少の瑕疵があった方が、瑕疵の補填としての寄付金要求の口実になる。 “それなりに いい成績”を 沙織が欲していたのは、敵を罠にかけるためだったのだ。 「沙織さん、受験の合否は、結局は寄付金次第だと、最初から ご存じだったんでしょう?」 だが、その証拠がない。 その証拠を手に入れるために(虎児を得るために)、沙織は ナターシャとナターシャのパパとマーマに お受験に挑んでもらった(虎穴に入ってもらった)のだ。 「まあ、思っていた通りではあったわね。今回の児童養護施設建設計画公表の前に、私、あの幼稚園に視察に行ってみたのよ。子供の養育に熱心な人格者の両親に育てられたにしては、何ていうか、素直とは言い難い高慢で我慢を知らない問題児が多くて……。私も、元は金持ちの鼻持ちならない我儘娘。すぐにピンときたわ」 「それは……」 そんなコメントに困るようなことを言わないでほしい。 言葉に詰まった瞬に、沙織は 軽く肩をすくめて、 「ごめんなさい」 と詫びてきた。 『ごめんなさい』が言えるなら、沙織はもう、金持ちの鼻持ちならない我儘娘ではない。 「この街の最大の看板と言っていい某有名幼稚園が、結局は寄付金で入園できる幼稚園だったなんてことは、幼稚園側も 幼稚園に通っている園児の親たちも公表されたくないでしょう。養護施設建設より、街の価値や土地の価格を下げる事実ですもの。この寄付金納付要項の書類は、いい切り札になる。ありがとう、瞬。有効利用させてもらうわ」 あでやかに微笑んで、沙織は、瞬が持参した書類を、彼女の脇に控えている魔鈴に預けた。 星矢が取りまとめた賭けは、どうやら無効ということになりそうだった。 合格に賭けた者、不合格に賭けた者、どちらの恨みも買わずに済むので、瞬にとっては有難い結末である。 「ナターシャちゃんは どうしていて?」 沙織は、賭けより、ナターシャの方を心配しているらしい。 だが、その点、瞬に抜かりはなかった。 お受験の何たるかが わかってしまった今、幼稚園の判断など、星矢の賭けより無意味なものでしかない。 「僕と氷河とで、お手製の合格証を作って、表彰しましたよ。ナターシャちゃんは いちばんの成績でしたと書いた合格証です。ただ ナターシャちゃんが幼稚園に通うことになると、ナターシャちゃんと一緒にいられる時間がなくなって、氷河がしょんぼりするから、幼稚園には行かないことになりました」 「そうね。それは大事なことだわ。大好きなパパとマーマと一緒にいられる時間。削らずに済むなら、それに越したことはない。ナターシャちゃんは、本当に幸せな女の子ね」 それは、早くに親を失った孤児たちも、金持ちの鼻持ちならない我儘娘も 知らなかった幸福である。 ナターシャは、そういう意味で、沙織と沙織の聖闘士たち全員の憧れの幸せを体現した、皆の娘だった。 「パパを しょんぼりさせないために、幼稚園には行かないことにしましたけど、ナターシャちゃん、お受験自体は 気に入ったらしくて、また受けたいと言っています。なにしろ、ナターシャちゃんにとって お受験は、新しい服を買ってもらえて、知らない人に たくさんパパ自慢ができる楽しいイベントでしたから」 「ま、頼もしいこと。そう言ってもらえると、私も気が楽になるわ。ナターシャちゃんに、ありがとうと言っておいてちょうだい。ナターシャちゃんのように元気で明るくて幸せな子供を増やすために頑張ると、私が言っていたと」 「はい。ありがとうございます」 瞬の『ありがとう』は二重の意味で。 ナターシャのマーマとして。 この世界から不幸な子供を一人でも減らしたいという思いで、聖闘士としての戦いを続けている者として。 たった一人の子供の幸福。 地上世界に生きている すべての子供の幸福。 子供の幸福ほど、実現が容易で困難なものはない。 ナターシャの屈託のない明るい笑顔を思い浮かべ、瞬は切なく微笑んだ。 Fin.
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