リビングルームを暖房で暖めているのは、ナターシャのためである。 ナターシャがやってくる前は、冬場にエアコンのスイッチを入れたことなど一度もなかった。 暖かい室内で ナターシャの力作チョコレートが融け始める気配がないので調べてみたら、チョコレートが融け出す気温は28度らしい。 チョコレートは保存に神経を遣いそうなので、店でチャームとして出すものは 専らナッツ類にしているのだが、チョコレートも そう面倒ではないかもしれないと思う。 思ってから、いったい俺は何をしているのだと思い直す。 氷河が、溜め息を一つ ついた時、 「パパ、何してるの?」 ナターシャがリビングルームにやってきた。 ナターシャは、いつもより少し早く、昼寝から目覚めてしまったらしい。 お昼寝から目覚めて リビングルームにやってきて、そこで最初に見たものが、自分の贈ったバレンタインチョコレートを見詰め 溜め息をついているパパの姿。 彼女が心配顔になったのは、至極 当然のことだったろう。 ここで慌てて 作り慣れていない笑顔を作ると、その不自然な笑顔が かえってナターシャの不安を煽ることを知っている氷河は、あえて無表情のまま、軽く首を横に振った。 「ナターシャのチョコレートが嬉しくて、可愛くて、勿体ないから、食べられなくて困っているんだ」 真実ではないが、嘘でもない。 氷河の返事を聞いたナターシャは、一度 大きく瞳を見開いてから、氷河の掛けている長ソファの隣りの場所に飛び込んできた。 そして、気負い込んで言う。 「食べて、食べて! ナターシャ、来年もパパにプレゼントするから、食べても大丈夫ダヨ!」 チョコレートは飾っておくものではなく、食べるもの。 どんなに上手にできたチョコレートも クッキーも お弁当も、食べてもらえなければ 作った甲斐がない。 そのことを ナターシャが知っているのは、パパやマーマのご飯の準備や おやつ作りを、ナターシャが いつも手伝っているからだった。 ご飯や おやつは、全部 食べてもらえるのが いちばん嬉しいことなのだ。 瞬の教育のたまものか、食べ物の道理がわかっているナターシャに出会った氷河の唇が ほころぶ。 こういう微笑なら、氷河も 自然に作ることができた――作ろうとしなくても、勝手に生まれた。 ナターシャの『パパ、大好き』なら、どんな疑いもなく信じることができるのに。 そう思いながら、氷河はナターシャに尋ねたのである。 「ナターシャは、俺が好きか?」 と。 1秒の間もなく、 「大好き!」 という答えが返ってきて、その答えが 氷河に沈黙を強いた。 「……?」 『大好き』と言われて、パパが――パパでなくても誰でも――こんなふうに眉を曇らせるのを、ナターシャは これまで見たことがなかった。 「パパ?」 ナターシャは 氷河の膝に乗り上げて、パパの顔を覗き込んだのである。 氷河が低い声で、ナターシャに尋ねてくる。 「瞬はどうだと思う?」 「マーマ?」 「瞬は俺を好きだと思うか?」 「大好きでしょう?」 「そうだろうか。瞬は、俺にチョコレートをくれなかった」 「ア……」 言われてみれば、その通りである。 マーマは ナターシャのバレンタイン大作戦に 全面的に積極的に協力してくれたが、マーマ自身は パパに“大好き”を伝えるためのことを何もしなかった。 こんな重大なことに、なぜ自分は気付かずにいたのか。 ナターシャは、自分が自分の“大好き”をパパに伝えることしか考えていなかったこと、自分の“大好き”がパパに伝わって嬉しかったことに夢中になって、マーマはどうなのかを考えもせずにいた自分の迂闊に唖然とした。 マーマはパパを大好きか、それとも 大好きではないのか。 それは、ナターシャが、これまでに ただの一度も考えたことのない問題(?)だった。 “大嫌い”ということはないと思う。 ナターシャは、マーマが誰かに対して――人に限らず、物に対しても――『大嫌い』というのを聞いたことがなかった。 たまに 公園で、意地悪な子や乱暴な子に出会って、ナターシャが怒っても、マーマは その子を責めたり、怒ったりしない。 ナターシャには、 『おうちで 何か つらいことがあって、いらいらしてるのかもしれないね』 と言い、意地悪な子や乱暴な子には、 『もう、こんなことはしないでね。あとで、きっと、お友だちに意地悪した自分を悲しく思うようになるから』 と言う。 そうして マーマに ぎゅうっと手を握られると、どんなに意地悪な子も乱暴な子も、最後には、『ごめんなさい。もうしません』と、マーマに約束するのだ。 マーマは、星矢ちゃんや紫龍おじちゃんや一輝ニーサンやカミュおじいちゃんにも、いつも優しい。 何を言われても、いつも にこにこしていて、時々 乱暴な言葉使いをする星矢ちゃんや一輝ニーサンも、結局はマーマの“にこにこ”には逆らえない。 そんなマーマが――よそのおうちの子や 一緒に暮らしていない仲間たちにも いつも優しいマーマが――同じ家にいるパパを嫌いなはずはなかった。 嫌いなのに、一緒にいるはずがないではないか。 だが――。 マーマは、 『氷河は、ナターシャちゃんを大好きだよ』 『ナターシャちゃんは、氷河が大好きなんだね』 と、いつも言う。 そして、 『僕は、ナターシャちゃんを大好きだよ』 も言ってくれる。 パパはナターシャを、ナターシャはパパを、マーマはナターシャを大好き。 一日に1回は必ず そう言うマーマが、 『僕は、氷河が大好き』 と言うのを、ナターシャは聞いたことがなかった。 もちろん、マーマが『僕は、氷河が大好きだよ』と言うのをナターシャが聞いたことがないだけならいい。 マーマが、ナターシャのいないところで パパに そう言っているのなら、何の問題もない。 だが、ナターシャが聞いたことのない その言葉を、ナターシャがいないところでも マーマはパパに言っていないから、パパは、 『瞬は俺を好きだと思うか?』 と悩み、 『瞬は、俺にチョコレートくれなかった』 と落ち込んでいるのだろう。 マーマはパパに、 『ナターシャちゃんが真似するから、服を脱ぎっぱなしにしないで』 と言い、 『ナターシャちゃんのカッコいいパパは、一日中 ぐーたらしてたりしないの』 と言う。 そして、パパに『大好き』とは言わず、『愛してる』と言うこともない。 ナターシャは急に心臓がどきどきしてきたのである。 その どきどきが、頭にまで響いて、頭が がんがんする。 マーマがパパを大好きではないかもしれないなんて、そんなことがあるだろうか。 そんなことがあっていいのだろうか。 そんなことがあるはずがない。 あってはならない。 絶対に絶対に そんなことはないと思うのに、だが、その証拠は何もないのだ。 マーマの言葉も、マーマのチョコレートもない。 少なくともナターシャは 聞いたことがなかったし、見たこともなかった。 ナターシャの どきどきと がんがん。 それは、不安のどきどきと がんがんだった。 ナターシャは、パパが大好きだった。 パパは優しくて、強くて、カッコいい。 光が丘では ダントツいちばんカッコいいパパで、多分、日本でもいちばん。 世界は広いから、ナターシャのパパと同じくらいカッコいいパパは他にもいるかもしれないが、ナターシャのパパがいちばんなのは絶対で、いちばんのパパが他にもいるかもしれないだけのこと。 そんなにカッコいいパパを好きじゃない人がいることは、ナターシャの想像を絶することだった。 まして、それが あの優しいマーマだなどということは、絶対にあり得ないことだった。 あり得ないはずだった。 それなのに。 それなのに、パパは言うのである。 右と左の肩を悲しげに丸め、しょんぼりした声で、 「俺は瞬が大好きで、瞬がいないと生きていられないのに、瞬はそうじゃないんだ……」 と。 パパの つらそうな声が、ナターシャの胸を痛くした。 |