黄泉比良坂の恋






「黄泉比良坂が消えかけている?」
デスマスクの報告で、瞬はむしろ、黄泉比良坂がまだ存在していたのかと、そのことの方に驚いたのである。
異世界のアイオロスの幻朧魔皇拳、アイオリアの第九感の暴走によって 冥界は消失した。
その時に黄泉比良坂も消えたものとばかり思っていたのだ、瞬は。

もっとも、冥界が消えたといっても、あの冥界は、原初の昔から存在していたものではなく、いくつも存在する神域の一ヶ所に、ハーデスが神の力で作ったもの。
ハーデスが その気になれば 再建は容易だろうと、瞬は思っていた。
問題は、今回の冥界消失に巻き込まれて消えた死者の魂の復活は可能か否かということ。そして、肝心のハーデスの居所がわからないこと。
――かなりの大問題ではある。

「黄泉比良坂……冥界が消えた時に、一緒に消えていなかったの」
瞬が尋ねると、その星座の中に死体の山から立ちのぼる魂の姿――積尸気――を持つ蟹座の黄金聖闘士は、いちいち説明するのも面倒と言わんばかりの態度で、顎をしゃくった。
「黄泉比良坂は、生者の住む現世と死者の住む冥界の境にある坂。半分は現世に属しているからな。現世に引っ掛かる形で、かろうじて残った。と言っても、ほぼ残骸だが」
だが、その、ほぼ残骸の黄泉比良坂も消えかけている。
消えかけている黄泉比良坂で、デスマスクは二人の男女に出会ったのだそうだった。
「黄泉比良坂にいるということは、死にかけている人たち……?」
「おそらく。いや、よくは わからんのだ。冥界に入っていけずに、黄泉比良坂の辺りで ふらふらしていたんだから、生きてはいるんだろうと思うんだが……」

生と死の境界。
それでなくとも どっちつかずの不安定な空間で、二人――特に女性の方は、存在自体が一層 不安定なものになっているのだそうだった。
彼女は、黄泉比良坂に現れたり消えたりを繰り返している。
デスマスク曰く、
「多分、あの女の身体は現世にあって 植物状態か昏睡状態になっているんだろうな。で、危篤状態になると黄泉比良坂に現われ、少し持ち直すと黄泉比良坂から消える。男の方は、常時 黄泉比良坂にいるから――こっちは、おそらく 安定した危篤状態なんだろう」

“安定した危篤状態”とは、フリージングコフィンの中にいて、外部からの攻撃を受けずに命脈を保っているような状態だろうか。
それも あり得ないことではない。
最近の心臓外科手術は、脳に一時的に人工心臓を繋ぎ、脳以外の身体を あえて死んだ状態にして行なうことも多いのだ。
コールドスリープは、もはや SF小説用語ではない。

「それで、その二人が いったいどうしたんです」
デスマスクに尋ねる瞬の中には 既に、少し嫌な予感が生まれていた。
単純な 嫌な予感ではなく、かなり複雑な嫌な予感である。
デスマスクの答えは、案の定、聞いて楽しいものではなかった――素直に、前向きに、対峙できるものではなかった。

「実際のところは どうなのか。奴等の本当の事情は、俺にも よくわからん。とにかく 二人は、現状では 黄泉比良坂でしか会えない。その黄泉比良坂が、もし消えてしまったら、もはや会うことは叶わなくなるのではないかと、二人は不安に おののいている。おまえの力でどうにかできないか」
『あなたが借りたい“おまえの力”は、僕の力ではないでしょう』と、ほとんど反射的に 瞬は 言い返しそうになったのである。
だが、瞬は言い返さなかった。
それを冷たく きっぱりと言うべきか、明るく にこやかに言うべきか、咄嗟に悩み、正答に至れなかったから。
結局、瞬は、事務的に対処することにした。

「僕は、ハーデスとは――」
ハーデスの力は、僕の中には存在しない(はず)。
だから、冥界絡みのことで、アテナの聖闘士バルゴの瞬に助力を要請するのは筋違い。
――と言おうとした瞬を、デスマスクが 皮肉をたたえた目と手と声で遮る。

「ああ、建前とか おまえの希望とかはどうでもいいから。ハーデスの力、借用できるんだろ? あの二人、かろうじて生きてはいるんだろうが、黄泉比良坂に来ると、現世での記憶がぼやけるらしくて、自分の名前しか わかっとらんのだ。永遠に黄泉比良坂を守ってくれというんじゃない。現世での二人を見付け、黄泉比良坂が消滅しても再会が可能なようにしてやってほしいと言ってるんだ。黄泉比良坂にやってこれるということは、半死半生状態なんだろうから、もしかしたら、それはハーデスの仕事じゃなくて、医者の仕事かもしれん。二人を生き返らせることができたら、それが最善。だが、まあ、場合によっては、二人共死なせてやった方がいいってことになるかもしれんがな」
「何を言っているんです。死なせてやった方がいいだなんて」

煙草の吸殻を投げ捨てるようなデスマスクの言葉に、瞬は 大仰に眉をしかめた。
デスマスクの そんな物言いは、良い結果を期待しすぎて 絶望する事態を防ぐための用心だとわかっているから。
デスマスクの悪ぶった言い方は、期待の裏返しなのだ。
とはいえ、死を選ぶ行為は、終末医療の現場では 既に極めて現実的な選択肢の一つになっている。
それは、瞬も承知していた。
綺麗事は、現実の前では なすすべもなく力を失うのだ。

いずれにしても、デスマスクは、全く素直な態度ではないが、二人の恋人同士の幸福を願って、瞬に助力を要請してきたのだ。
瞬は微笑んだ。
デスマスクの優しさ自体は、単純に嬉しかったので。

「優しいんですね。ナターシャちゃんや吉乃さんに懐かれるわけがわかります」
「何を言っているんだ、おまえは」
「ですから、偏見を持たない女性や子供たちには、デスマスクさんの優しさがわかるんだろうなあって」
「は。なーにが、女性や子供だ。あの糞ガキや馬鹿女が、そんな上等なもんかよ。あいつらは、女子供の中では特大の変り者。俺は あんなのに好かれたくねーし、好かれても嬉しくねーし、そもそも俺は優しくねーし」

実に わかりやすい、ひねくれ具合い。
どうして ここまで、デスマスクは自分の優しさを否定するのか。
それは、もちろん、それが事実だからなのに決まっていた。
それが事実で、過去の自分の行為を悔やみ、悲しんでもいるから。
自分は優しい人間になってはいけないのだと、彼は自身を戒めている。
彼の意思を、瞬は尊重することにした。

「失言でした。蟹座の黄金聖闘士が優しいはずがない」
「たりめーだ」
彼の意思を尊重しようと決めたばかりなのに、つい くすくすと 含み笑いが洩れてしまう。
悪いのは、笑ってしまう自分か、とことん笑わせてくれるデスマスクか。
蟹座の黄金聖闘士は、瞬に、瞬の仲間たちの姿――特に幼い頃の姿――を彷彿とさせた。
生き方が不器用で、損ばかりしている。
氷河にも星矢にも 瞬の兄にも、そのきらいがある。
瞬は いつも、そんな仲間たちの尻拭いをしながら、紫龍と共に嘆息する役だった。
「何を笑ってやがる」
自分が笑われていると決めつけて 唇を尖らせているデスマスクを、瞬は微笑を重ねてごまかした。

「いえ。それで、そのお二人、記憶が曖昧でも お名前だけはわかるということでしたが、お二人の お名前は何とおっしゃるんですか? 僕、調べてみますよ。今は、植物状態からの回復を目的にした専門の療護センターも、全国各地にあるんです」
「それは、直接、当人に訊け。説明が面倒だ」
面倒というより、難しいのだろう。
身に馴染んだ ぶっきらぼうな物言いで、他人の語った話を そのニュアンスまで うまく伝えられる自信が、デスマスクにはない。
あるいは、とにもかくにも まず、瞬を この件の関係者にしてしまおうとしたのか。
気が付くと 瞬は、黄泉比良坂に向かう山の麓に立っていた。






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