療護センターでの治療が始まれば、遠からず 華は完全に生き返り、黄泉比良坂に現われることはなくなる――できなくなるだろう。 できれば、そのタイミングに合わせ、こちらの世界で 華が鎮と会えるようにしてやりたい。 瞬は、そう思っていたのだが。 華が あっけないほど簡単に見付かったのとは対照的に、源鎮は どれほど探しても 見付からなかった。 少なくとも、日本国内の医療機関への照会では見付からなかった――つまり 彼は、国内の、真っ当な病院や療護センターにはいないのだ。 しかし、鎮が国外にいるとは、瞬には考えにくかったのである。 初めて黄泉比良坂で会った時に 鎮が身に着けていたものは和服だった。 病院の検査着ではなく、日本人が着る着物だったのだ。 そう考えると、鎮は、半死半生の状態で、非合法の医療施設、もしくは 医療施設ではない施設に閉じ込められている可能性が高くなる。 非合法な施設はもちろん、法的に問題は なくても私的な施設(個人の家ということもありえる)には、当然のことながら、照会システムはない。 そして、捜す範囲は日本国内全域。 地球規模で見れば、日本は小さな島国だが、その中から 当てもなく たった一人の人間を捜し出すのは、アテナの聖闘士にも至難の業である。 だから――瞬は、せめて、捜索範囲を狭められる何らかの情報を得られないかと考えて、再度 黄泉比良坂に赴いたのである。 華のいないところで 鎮に伝えたいこともあったので、華に栄養剤が投与され 彼女が死より生に近くなる時間を見計らって。 死人ではないのに 常時 黄泉比良坂にいるという鎮は、その日も、死人の群れのない黄泉比良坂の麓にいた。 華はおらず、茫漠とした黄泉比良坂に ぽつんと一人。 瞬の目には、そんな鎮の様子が、華と並んで 互いに支え合うように立っていた時よりもずっと 毅然としているように見えた。 「生者の世界での華さんは見付かりました。植物状態だったのですが、治療方法も目途はついています。華さんは生き返ります」 まず、その報告をする。 鎮は その報告を聞いて 喜ぶのか、報告内容が『二人が見付かりました』ではないことに不安を抱くのか。 鎮の反応を見て 続く情報の伝え方を考えようとしていた瞬は、鎮の見事な無反応に、少なからず戸惑いを覚えることになった。 語調を変えず、報告を続ける。 「ただ、現世での華さんは、ここで出会う華さんとは違って 多分、あなたより10歳は年上です。それでも――」 10歳近く年下と思っていた人が、実は10歳も年上だった――というのは、友人同士なら まだしも、恋人たちにとっては 非常に衝撃的なことであるに違いない。 にもかかわらず、鎮は さほどショックを受けたようには見えなかった。 瞬は むしろ、驚かない鎮に驚いてしまったのである。 「華さんは、今も生きているんですね。よかった」 冷静に、鎮は喜んだ。 どこか悲しげな響きを帯びてはいたが、彼の『よかった』という言葉は形だけのものではなく、真情が こもっていた。 瞬には、そう聞こえた。 そんな瞬に、鎮が申し訳なさそうに、今度は 形ばかりの笑みを口許に刻む。 「そして、あなたは、生者の世界で私を見付けることができず、ここに いらした。そうでしょう?」 推測を断言の形で告げる鎮に、瞬は頷いた。 鎮が、今度は心から申し訳なさそうに 眉根を寄せる。 「お手数を お掛けしたのでしょうね。申し訳ありません。私は――私自身には 死んだ記憶はないのですが、私は死んでいるのだと思います」 自身のことなのに、推測形。 断言できないのなら、それは想像に過ぎないのだろう。 瞬は、鎮の思い込み(おそらく)を すぐに否定した。 「それは確かめてみないと わかりません。華さんは、植物状態でしたが生きていましたし。ですが、現実の世界での華さんは、黄泉比良坂で見る20歳前後の華さんとは違っていた。おそらく華さんは そのことに気付いていません。鎮さん。鎮さんも――ここで鎮さんが自分はこうだと思い込んでいる鎮さんと 現実世界での鎮さんは違うかもしれません。『死んでいるのだと思う』なんて、それこそ、確たる根拠のない 鎮さんの思い込みでしょう。本当に死んでいるのなら、鎮さんは 黄泉比良坂に留まっていることなく、冥界に行っていたはずですから」 死んではいなくても、鎮も、たとえば 黄泉比良坂での華のように、20代後半の姿は事実ではなく、もっと年上――30、40歳どころか、70、80歳の可能性すらある。 二人が生き返って、幸せな恋人同士でいられるかというと、それは決して確かな未来ではない。 しかし、二人は生きているはず――死んではいないはず。 そして、人間は、生きている限り 希望を抱いていられる存在のはず。 それは、瞬の信念だった。 瞬の信念に、鎮が優しく――華が言っていたように“仏様みたいに”――微笑む。 「華さんは、私よりずっと年下ですよ。私は死んでいるんです。それは確かな事実です」 鎮の記憶は曖昧なはずなのに――その言葉は 確信でできていた。 確信に満ちて、鎮は言った。 「華さんが生き返ることが不可能で、我々が この黄泉比良坂と共に消え去る運命なのであれば、真実を告げることなく、共に消えればいいだけのことだと思っていたのですが……」 『どうやら そうは ならないようだ』と、顔を伏せ、鎮は呟いた。 そして、意を決したように、顔を上げる。 「私の父は、本邦の第52代天皇、嵯峨院――嵯峨天皇、嵯峨上皇と呼ばれた人です。私は彼の50人以上いる子供の中の一人です。私は、承和4年、神護寺にて出家し、弘法大師空海の十大弟子の筆頭 真済の弟子となり、白雲禅師と号しました」 「じょうわ4年? え? ――というと……?」 「西暦837年ですよ」 「西暦837年……」 1200年も昔。 では、確かに鎮は 現代に生きてはいないだろう。 瞬は、あっけに取られた。 「死んだ記憶はないんです。私の師 真済は、文徳天皇の病を癒すことができず崩御させてしまったことを非難され、責任を問われ、隠居を余儀なくされた。私は その仕打ちへの抗議のため、真言密教の――即身成仏の義を執り行なった。死んでいないはずはない」 「即身成仏……」 それが どのようなものなのか、瞬は詳しくはない。 シャカの技に関連する事柄については 一通りのことは学んだが、世界の平和を守るために戦うアテナの聖闘士の力と、個人が悟りを開いて仏となることは、シャカのように“無慈悲”という矛盾を 自分の内に持たないと破綻すると気付き、深く立ち入ることはしなかったのだ。 外界から遮断された土中等の穴や閉じられた空間で、光を断ち、人との接触を断ち、食糧や水を徐々に減らしていき、やがて死に至った時、その亡骸は腐敗しなければミイラになる。 宗教的精神的な点を除外すれば、生物学的には そういうところだろう。 鎮の『死んだ記憶はないが、確実に死んでいる』とは、そういうことだったのだ。 彼は、光のない真の闇の中で、長い時間をかけ、徐々に死んでいったに違いない。 鎮は、半死半生だから 黄泉比良坂にいたのではなく、死んだ自覚をもっていないがゆえに、死者の領域である冥界に足を踏み入れることができずにいたのだ。 鎮は、死ぬことはできないが、生き返って 華と共に人生の続きを生き始めることもできない。 そのための肉体を、彼は既に失ってしまったから。 鎮の事情を、瞬は やっと理解した。 瞬が理解したことを理解して、鎮が瞬に告げる。 「華さんを生き返らせてください。そして、私を忘れさせてほしい」 そうするしかないのだと、鎮は最初から わかっていた――そうするしかないのだと、覚悟していたのだろう。 瞬も、そう思った――そう思うしかなかった。 二人の恋人同士 ――その一方は死に、もう一方は生きているのだから。 「忘れさせることはできませんよ」 人の心を操作することは、アテナの聖闘士にもできない。 「ですが、この場で私と会ったことは夢だったのだと思わせることは可能でしょう」 「それは……」 実際、二人の恋は夢のようなもの。 本来は出会えなかったはずの二人。 二人が二人して生き返り、生者の世界で幸福になることは不可能なのだ 神ならぬ身の無力。 ハーデスの力を欲しいと思ったことはないが、その力があれば人智を超えてできることが増えることは、瞬にも わかっていた。 だが、やはり、人間が その力を持つべきではないと思う。 持つことが、瞬は恐かった。 自身の無力に唇を噛んで、瞬は俯いたのである。 そこに、 「おい、瞬。何かあったのか? 今、あの女が――」 デスマスクの頓狂な声が響いてきた。 「あの女が、ものすごい勢いで 生き返っていったぞ」 と。 |