『ごめんなさい』で済むことではないが、『ごめんなさい』を言わずにいていいことでもない。
それはわかっているのに、『ごめんなさい』が言えずにいたのは、言うタイミングを掴めなかったから。
マンションのリビングルームの長ソファで、氷河が瞬の肩を抱いたまま、いつまでも解放してくれなかったからだった。
『ごめんなさい』は、相手の顔を見て言わなければならない。
そのために、瞬が自分の肩にまわされている氷河の腕を解こうとした時、氷河が ふいに、
「俺も、同じことをしようとしたことがある」
と言った。
瞬の肩を抱いたまま、瞬の顔を見ずに。

「え?」
「十二宮戦。宝瓶宮。カミュと ガキの頃の自分の戦いを やめさせようとしたんだ。クロノスに頼んで、あの場あの時に運んでもらった。おまえが、医師国家試験に受かった頃かな。俺は、仕事でヘマをすることもなくなって、妙に余裕ができてしまったのがよくなかった。面倒な敵でもいてくれれば、あんな甘ったるい夢は見なかったろうが」
「甘ったるい夢?」

自分が自分のせいで死なせてしまった師を、生き返らせたいと思うことは、甘ったるい夢なのか。
瞬が問うと、氷河は、
「もちろん、甘ったるい夢だ」
と答えてきた。
「うん……」
瞬は、頷くしかない。
それは、甘ったるい夢なのだ。

「だが、結局、俺には、俺とカミュの戦いを止めることはできなかった。過去を変えれば 歴史が狂う――なんて、真っ当なことを考えて 思いとどまったわけじゃないぞ。その少し前、国家試験に合格したおまえが、祝杯として 初めて俺の作ったカクテルを飲んで――軽い酒だったのに、酒を飲み慣れていないおまえは すぐに潰れて、半分 眠りながら、俺に ありがとうと言ってくれた。あの時のおまえが可愛くて――可愛かったことを思い出して……。何だろうな。そんな ささやかで、何でもない ひと時が、もしかしたら失われてしまうのかもしれないと思ったら、俺は動けなくなってしまったんだ。まもなくカミュが死ぬとわかっていたのに、俺は 何もせずに 元の時間に戻った」
「氷河……」
「あの時ほど、自分を冷酷な男だと思ったことはない。俺の幸せは、カミュの死の上に築かれている。そして、俺は、その幸せを失いたくないのだと」
「でも、それは……」

だが、それは、氷河が特別に冷酷だということではないだろう。
人間の幸せは、誰の幸せも、自分以外の人間の死の上に築かれているものなのだ。
「俺が おまえをアルビオレの許から引き戻したのも、歴史がどうの、世界の平和がこうのという、大層な理由からのことじゃない。俺の幸せを守るためだ。おまえとナターシャと暮らしている、今の俺の幸福を失うことに、俺が耐えられないから」
「氷河……」
「俺から、今の幸福を奪わないでくれ」

今の幸福を失うことに耐えられないのは、瞬も同じ。
過去を変えれば、歴史が変わり、こうして幸せに暮らしている“今”は ないものになる。
おそらく、ナターシャと出会うこともない。
今、地上が存在するかどうかすら、わからない。
幸せとは、それほどに頼りなく、あやふやな時の流れの果てに、ささやかに 密やかに かろうじて存在する奇跡なのだ。

「マーマ、どうしたの」
今、瞬の幸せを作ってくれている大切な かけらの一つが、マーマの涙に驚いて、瞬の膝に飛び乗ってくる。
「瞬は、昔、悲しかったことを思い出して、泣いてるんだ。ナターシャに会う前の、ずっと昔のことだ」
ナターシャのせいではないし、“今”が悲しいのでもない。
それは、ナターシャに会う ずっと前のための涙。そして、ナターシャに会えなかったかもしれない今と未来のための涙だった。

「マーマ、大丈夫?」
ナターシャが心配そうに、その小さな手で、瞬の頬にある涙に触れる。
小さな温かい手。
氷河の腕が、瞬の肩を抱いている。

楽しいわけでも嬉しいわけでもないのに、瞬の瞳と口許に 自然に微笑みが浮かんだのは、ナターシャのため、氷河のため、そして、瞬自身のためだった。
「ナターシャちゃんと氷河がいるから、もう悲しくないよ。僕は、今は とても幸せで……とても幸せだから」
もちろん、その言葉に嘘はない。
幸せが こんなに悲しいものだとは。
だが、瞬は、今、確かに幸せだった。
とても。
悲しいほどに。






Fin.






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