聖闘士にも倒すことが容易ではないだろう海獣ケートスに、おそらくは、たまたま遭遇し、武器を持っていなかったので素手で倒した。
そんなことのできる人間が 只者であるはずがない――とは思っていた。
エティオピア王の配下の中でも 一、二を争う剛の者。身分も地位も低いわけがない――とも思っていた。
しかし、そんな瞬も、海獣ケートスに素手で挑むような無謀をする人物が、まさかエティオピア国王その人だとは考えてもいなかったのである。
エティオピア国王が虚弱で大人しい人物だという話を聞いたことはなかったが、だとしても。
エティオピア国王が豪胆で粗野な男だという噂を聞いたことはあったが、それにしても。

とても船の中の部屋とは思えないほど広い船尾楼船室の床には、毛足の長い絨毯が敷かれていた。
文明国ギリシャに比べれば野蛮と評されることの多いエティオピア王国だが、さすがに 王のための部屋、王のための調度は 豪華で美しかった。
複雑な意匠が二重の透かし彫りになった背もたれの玉座に座っている その人は、瞬がアンドロメダ島で 寝る間も惜しんで看病をした、金髪の重傷者だった。

「え、エティオピア王…… !? 」
「エスメラルダ姫……?」
怪我が少し癒えて動けるようになると、彼は名も名乗らずにアンドロメダ島を去っていった。
瞬は それを彼が慌て者だからだと思っていた。
単に、名を名乗るのを忘れていただけなのだと。
何か一つのことに夢中になると、他のことが見えなくなるきらいが、彼にはあったから。

大怪我をしている彼を浜で見付けた瞬は、聖域の領土であるアンドロメダ島に無許可で上陸した人の存在を 島の他の住人には知らせず、浜の洞窟で一人で こっそり手当てをした。
“僕”と“あなた”、“君”と“俺”しかいない洞窟では、名前がなくても困ることはなかったのだ。
だが、もしかしたら、彼が瞬に名を名乗らなかったのは、彼がエティオピア国王 一輝だということを余人に知られるわけにはいかないからだったのかもしれない。

いずれにしても。
300人の乗組員がいる船が10隻。
その中から、最近 大怪我をした腕の立つ金髪の青年を探し出すには、船の中で情報収集に努めなければならないだろうと、瞬は思っていた。
その人に、何の苦労もなく あっさり会えてしまったことを、瞬は喜んだのである。
何より、彼の怪我が すっかり癒えているように見えることを。
今の自分がエスメラルダ女王であることを忘れて。

瞬は彼に会えたことが嬉しかったのだが、エティオピア国王は 瞬との再会を喜んでいるようではなかった。
彼は嬉しくなさそうだった。
沈んでいるようにさえ見えた。
彼が自分を見ても喜んでくれないので、エティオピア王国によるデスクィーン王国侵略計画は事実なのかもしれないと、瞬は思った。
そして、今の自分はデスクィーン王国のエスメラルダ女王であることを思い出した。
瞬をエスメラルダ女王と信じているエティオピア王国やデスクィーン王国の臣や兵たちが、国王と女王のやりとりを見守っている。

瞬は、
「王が代わっても、両国の末永い友好を願います」
白々しいほど型通りの挨拶を述べることしかできなかったし、エティオピア国王も それは同じ。
エティオピア国王と彼の兵は、エティオピア女王を捕え 害を為そうという気配すら見せなかった。
そして、エティオピア国王の様子は、終始 ぎこちなかった。

奇異に思った瞬は、事情を探るため、下船前に迷子になった振りをして、兵士たちが たむろする船倉に忍び込んでいったのである。
航行も戦闘もしていない船に乗り込んで 暇を持て余している兵士たちは、瞬の予想通り、情報の宝庫だった。

「まったく信じ難い話だ。勇猛果敢で聞こえたエティオピアの不死鳥が、眠り草の君のこととなると、5、6歳のガキ大将並み」
「こんな大船団を組んで 会いにきたら、エスメラルダ姫に恐がられるだけだろうに、陛下は女心がわかってない」
「賭けてもいいが、エスメラルダ姫とデスクィーン王国の国民は、十中八九 疑心暗鬼を生んでるぞ。この大船団を、侵略のための軍船だと思い込んでる」
「どうせ、今日の会見でも、気の利いたセリフ一つ言えなかったんだろ?」
「利かせる“気”がないのに、どうやって」
「恋の指南役なんて、軟弱な分野が得意な友だちも、陛下の周りにはいないからなあ」

兵士たちの噂話を盗み聞いているうちに、瞬には、『眠り草の君』というのがエスメラルダのことだとわかってきた。
大国エティオピアの新国王の即位戴冠式。
数日に渡って催された大規模な祝典と祝宴。
大国の王になるというのに 堅苦しいのが苦手なエティオピア新国王は、下級兵士の服装をして息抜きをしていた時、偶然 エスメラルダに会って、彼女に好意を抱いたらしい。
今回、彼女の父王の死後 あまり間を置かずに大船団を設えてデスクィーン島にやってきたのも、強力な統率力を誇っていた暴君亡きあとのデスクィーン王国を侵略するためではなく、ただ一人の肉親を失って 心細い思いをしているであろうエスメラルダ姫に会い、彼女を力づけるため。
そして、もしかしたら彼女に求婚するため――だったというのだ。

エティオピアの兵たちの雑談を盗み聞いた瞬は、その話の意味が理解できず混乱することと、呆然とすることを、同時にした。
差し迫った危険など 何一つないのに、心臓が痛いほど速く大きく その仕事に励んでいる。
兵士たちの噂話を、瞬は懸命に脳内で整理した。

数年前のエティオピア王国の戴冠式で、エティオピア国王は エスメラルダと出会い、恋に落ちた。
その面影が忘れ難く、彼はエスメラルダに求愛するために、大船団を構えてデスクィーン島にやってきた。
エティオピア国王の気持ちを知らないエスメラルダとデスクィーン島の民は、エティオピア軍による侵略を恐れている。

これは――これだけなら、エティオピア国王がエスメラルダとデスクィーン島の民の誤解を解けば、事態は解決するだろう。
問題を ややこしくしているのは“瞬”だった。
瞬はアンドロメダ島で大怪我をしているエティオピア国王を助けた。
あの時、エティオピア国王は、彼が恋するエスメラルダ女王と そっくりな瞬を、同一人物と誤解したのか、恋する者の直感で別人とわかったのか。

同一人物と誤解したのなら、エティオピア国王は、彼が恋したエスメラルダ姫と様子の違う瞬に 失望したかもしれない。
別人だとわかっていたら、今日 この場にエスメラルダ女王でない人間が来たことを、彼はどう思ったのか。
身代わりを立ててエティオピア国王を騙そうとしたことを侮辱と感じ、立腹しているかもしれない。
それなら、会見の場で瞬を見たエティオピア国王の様子が 終始 ぎこちなかったことにも納得がいく。

アンドロメダ島で深い怪我を負っていた彼を看病している間、看病されている間、二人の間に生まれた信頼(のようなもの)や温かさ(のようなもの)や好意(のようなもの)は、ただの錯覚だったのだと思うしかないことは、瞬の心を ひどく暗く重いものにした。






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