千代田区が日本の行政の中心で、中央区が日本の商業の中心、港区が日本のビジネスの中心なら、台東区は文化の中心といえるだろう。
国際子供図書館の近くには、美術館、博物館、動物園があり、それらを訪れる客をターゲットにしたカフェが数多くあった。
国際子供図書館(本館は千代田区)とは異なり、台東区の美術館や動物園には 都心三区以外の人間も入館入場できるのだ。

ナターシャが選んだのは、クリームで埋まったスフレ ホットケーキが食べられる、メルヘン調の可愛らしいカフェ。
千代田区民だから特別なものを食べるというわけではないらしく、千代田区民のマーマは紅茶と、ナターシャの顔を立てて(?)シフォンケーキをオーダーした。
氷河は飲み物だけ。
ナターシャが食べきれなかったスフレホットケーキの後片付けという任務が、彼には課せられているのだ。

「ありがとう。すまない。俺たちのために時間を割かせてしまった」
言ってみれば、通りすがりの親切な人を、子供の遊びに3時間も付き合わせてしまったのである。
その事実に 今更ながらに恐縮して、氷河は親切な千代田区民に頭を下げた。
一口に3時間と言っても、千代田区民の3時間と練馬区民の3時間では、価値が(時給が)違うだろう。
だが、千代田区民は優しかった。
「僕、一度、あの図書館の中を見てみたかったんです。でも、児童図書館に大人一人で入るのは恥ずかしくて――。こちらこそ、助かりました。ありがとうございます」

優しい微笑。
間違いなく 途轍もない美人だが、彼女(彼?)を ただの美人ではなく 特別な美人にしているのは、その澄んだ瞳と優しい言動、優しい表情である。
子供図書館の中を見てみたかった――と、彼女(?)が親切で言ってくれているのはわかりきったことだったので、氷河は、
「ありがとう」
と、もう一度 礼を言った。
「おかげで、ナターシャをがっかりさせずに済んだ」

そのナターシャは、クリームで埋まったスフレ ホットケーキと格闘中。
彼女は大人の会話には割り込んでこない。
そんな気遣い(?)を、自覚して行なっているのか、無自覚に行なっているのかは わからないのだが、ナターシャは いつも適切な気遣いのできる子供だった。
優しい美人と親しくなりたいパパの気持ちを、ナターシャは しっかり感じ取っているのだ。

「いいえ。国民の税金で運営している国立の図書館を、三区の人間しか利用できないことの方がおかしいんです。都心三区は国の行政機関が多くて、住居を構えている人間は少ないのに。理不尽だし、不合理です」
「……そうは言っても、千代田区の住人は、納める税金の額の桁が違うんだろうし」
優しい人が千代田区民なので、千代田区民の悪口は言いにくい。
しかし、優しい千代田区民は、なかなかに辛辣だった。

「大人はともかく、千代田区に暮らしている子供たちは 他の区に暮らしている子供たち同様、税金を1円も納めていませんよ。子供たちが公共施設を使う機会は、均等に与えられるべきだ」
「……」
優しい人は、優しいだけでなく聡明でもあった。
東京23区制の不平等不公平を正しく理解してくれている。
本音を言えば、これが自分のことなら、不平等も不公平も 氷河はどうでもよかった。
ナターシャのことだから、それらの不平等不公平に憤りを覚えずにいられないのだ。
優しく聡明な人が、スフレホットケーキと真剣勝負中のナターシャを見やり、口許を ほころばせる。

「可愛らしくて 機転の利く お嬢さんだ。きっと大成するでしょう。ナターシャちゃんの未来、希望、可能性を奪ってはならない」
「それは俺も思う」
ナターシャのことだから、娘のことだから、父親だから。
だから、不平等不公平が許せない。
そんな都心三区民以外の区民の思いが、三区民には わからないのか。
三区民の中にも、子供の親はいるだろうに。
きつく奥歯を噛みしめた氷河に、もしかしたら ただ一人だけ 氷河の憤りを理解してくれている千代田区民が、まるで千代田区民ではないような眼差しを向けてきた。

「これ、僕の名刺カードです。これを出せば、千代田区だろうが中央区だろうが、大抵の公共施設は使えますから、お使いください」
そう言って、優しい人がカードケースから取り出したのは、千代田区の区章と日本国の国章が箔押しされた名刺大のカードだった。
薄く軽いが、特別な紙でできているのが わかる。
優しい人の名は、“瞬”というらしい。
触っただけで貴重なものとわかるカードを10枚も渡されて、氷河は、らしくもなく緊張してしまったのである。

「こんなに、いいのか? 俺は悪用するかもしれないぞ」
「するんですか」
「するわけがない」
「ええ。僕は、本当は こんなものがなくてもいい社会を作りたいんですけど」
「なに?」
瞬は、もしかすると、社会運動家もしくは革命家と呼ばれる人間なのだろうか?
その考えを、だが、氷河はすぐに振り払った。
瞬の優しい微笑からは、そんな物騒な姿は とても想像できない。

「コピー偽造防止機能つきなので、コピーはできないんです。なくなったら、連絡をください」
「ありがとう」
図々しいとは思ったが、また会えるのが嬉しい。
万能カードを分けてもらえたことより、瞬に 連絡先を教えてもらえたことの方が、氷河は嬉しかった。

「これが俺の勤め先で、携帯の番号とメッセージ用のID。嫌でなかったら――」
コピー偽造防止機能つきなどという大層なものではなかったが、勤め先の名刺(というより宣伝用のカード)を、瞬に渡す。
店の所在地は墨田区。
区の格は、中の上といったところだろうか。
練馬区よりは誘いやすいが、微妙な位置づけの区であることは確かである。
千代田区民に無理強いはできないので 控え目に誘ったのだが、瞬の遠慮の理由は、店の所在地が墨田区だからではなかった。

「僕、お酒は あんまり得意じゃないんです……」
「君のためなら、フルーツパフェでも作る」
「それなら、行かなきゃ」
瞬が、嬉しそうに、楽しそうに笑う。
居住区や就労地で人を差別する気持ちが 瞬に全くないことがわかって、氷河も嬉しくなった。
パパが嬉しそうなので、ナターシャも嬉しくなる。
そんなふうにして、練馬区民の氷河とナターシャ、千代田区民の瞬は知り合い、親しくなっていったのだった。






【next】