「パパーッ!」 ターザンロープにネットツリー。 光が丘公園のちびっこ広場に来たら、絶対に外せない二つの遊具を堪能して、ナターシャはパパの許に駆けてきた。 ネットツリーのてっぺんから素敵な光景でも見えたのか、ナターシャは興奮気味に頬を上気させている。 いつもはベンチに座らずにナターシャを見守っているのに、今日はベンチで、地獄門の“考える人”のようなポーズをとっていた氷河の許に、ナターシャは全速力で駆け寄ってきた。 「パパ、パパ! 今、バードサンクチュアリの方に、小さな白い鳥が飛んでったヨ。あれ、きっと、最近 光が丘公園にシュツボツしてる白い雀ダヨ!」 「白い雀? そんなものが、この辺りにシュツボツしているのか?」 「シュツボツしてるんダヨ! こないだ、マーマに言ったら、マーマも見てみたいなーって言ってタ。ナターシャ、マーマに、『見に来て』って言ったんダヨ。『ナターシャとパパのおうちにも遊びに来て』っテ」 「瞬に そんなことを言ったのか !? 」 千代田区民の瞬に、よりにもよって、練馬区に遊びに来てと。 大人は、台東区で待ち合わせをしたり、墨田区の店に足を運んでもらうだけでも、申し訳なさを覚えるというのに、子供は恐いもの知らずである。 ナターシャは、力一杯 頷いた。 「ウン。マーマは、パパにお招きしてもらえないと行けないって言ってタ。マーマは、礼儀正しい大人だから、パパとナターシャのおうちに 押しかけてこれないんダヨ。パパ、早く マーマをお招きして、ちゃんとマーマにプロポーズするんダヨ。ナターシャは、マーマにバードサンクチュアリで白い雀を見せてあげたいヨ!」 「ナターシャ……」 子供は本当に恐いもの知らずである。 氷河も、子供の頃はそうだった。 恐いのは孤独だけ。 冬眠から目覚めたばかりの飢えたシロクマも、体重1トン超えのトドの群れも 恐くはなかった。 そんな氷河が、今は、縦54ミリ、横85ミリの1枚の区民カードを恐れている――のだ。 「ナターシャ……。俺は練馬区民で、瞬は千代田区民だ。ナターシャには わからないかもしれないが、練馬区と千代田区の間には 飛び超えることのできない高い壁、泳いで渡ることのできない深い河があるんだ。どんなに好きでも、千代田区に住んでいる瞬に、俺たちの住んでいる練馬区の光が丘に来てくれとは言えない」 「ナターシャ、わからないヨ!」 『ナターシャには わからないかもしれないが』 氷河が仮定文で言ったことを、ナターシャは事実として認めた。 自分には そんなことは わからない。だが、自分は間違っていない。 ナターシャの口調と表情は、自信に満ちていた。 「ナターシャには わからないヨ。練馬区民だって、パパは光が丘でいちばんカッコいいパパダヨ。パパにはナターシャもついてる。ナターシャは世界一いい子ダヨ。勇気を出して、マーマに大好きって告白するんダヨ!」 「ナターシャ……」 そうできたら、どんなにいいか。 瞬に大好きだと告白し、抱きしめてキスすることができたなら。 同じ家で暮らし、同じベッドで目覚め、二人でナターシャを育てることができたなら。 それは どれほどの幸福か。 しかし、氷河が その幸福を手にするということは、瞬に多くのものを捨ててもらうことなのだ。 「ナターシャ。俺だって そうしたい。瞬に 大好きだと100万回でも言ってやりたい。だが、練馬区に来てくれと 瞬に言うことはできないんだ。言えば、瞬を苦しめ、悩ませることになる」 「そんなことないヨ!」 ナターシャの断言は 推測による決めつけだったが、その推測は正しいものだったろう。 正しい推測だったことを、 「そんなこと ありませんよ」 という瞬の声が証明してくれた。 「しゅ……瞬……」 いつのまにか、瞬が そこに来ていた。 「ナターシャちゃんに、ちびっこ広場に お招きを受けたので――」 ネットツリーのてっぺんで ナターシャが見た“いいもの”は、瞬が光が丘公園の ちびっこ広場に向かっている姿だったのだ。 ナターシャは、勇気を出せずにいるパパの代わりに、瞬の側に駆け寄り、小さな二つの手で瞬の左手を握りしめた。 「マーマ、マーマ。マーマはパパとずっと一緒にいるのは駄目? 練馬区民だから駄目? ナターシャみたいに可愛い いい子がついてても駄目? パパはマーマが大好きなんダヨ! ナターシャがマーマを大好きなのと おんなじくらい、大好きなんダヨ!」 ナターシャのセールス・プロモーションは 極めて的確、そして 有効。 ナターシャが提示した購入特典は がっちり、瞬の心を掴んだようだった。 「ナターシャちゃんみたいに可愛い いい子が僕の本当の娘になってくれたら、僕は嬉しいな」 「デショ! ソーだヨネ! マーマ、パパはすごくカッコいいヨ。とってもとっても優しくて、お料理も上手だし、身体も頑丈で、力持ちダヨ!」 「ナターシャちゃんを見ていれば、氷河が とっても優しい人だってことは、すぐにわかるよ」 「さすがはナターシャのマーマダヨ!」 「瞬……ナターシャ……」 当事者の一人である氷河を無視して、勝手に話が進んでいく。 ナターシャと瞬の間で、話が完全に決まってしまう前に、氷河は瞬に告白しておかなければならない重大な秘密が もう一つあった。 慌てて、それを瞬に告白する。 「瞬。俺は……俺は練馬区民どころか、実はシベリア生まれなんだ……!」 練馬区より はるかに未開の地シベリア。 この地球上に そんな場所があることすら、千代田区民の瞬は知らないかもしれない。 氷河の不安に対する瞬の答えは、 「僕は、去年まで エチオピアで働いていたんですよ」 だった。 「は?」 「エチオピアのソマリ州の難民キャンプで、何年も医師として活動していたんです。舗装された道なんかない、泥と藁の家しかない不毛の地です」 「泥と藁の家……?」 「ええ」 『ええ』と にっこり笑って頷いた瞬の説明によると。 瞬は、ソマリアと国境を接するエチオピアの乾燥地帯で 医師として活動しながら、希望する若者たちが医師になる道に進めるよう、活動を続けていたらしい。 医師のいない地域で、瞬は神のように敬われ、有難がられていた。 我が身の危険を顧みない真摯な医療活動で、エチオピアを救ったアンドロメダの名で呼ばれるようになり、その名は広くアフリカ全土に知れ渡っているらしい。 ある時、そんな日本出身の“神様”の口利きと協力で大規模灌漑事業を成功させることのできた日本政府と日本企業は、それに味を占めてしまったのだそうだった。 これからのアフリカ地域への大規模インフラ輸出に意欲的な日本政府は、瞬の協力を得るために、瞬を特別名誉区民として千代田区に招聘した。 瞬一人の口利きで、数兆円数十兆円規模の契約を各国で締結できる(かもしれない)のだ。 厚遇も当然のことである。 その瞬が言うのだ。 「生まれた場所や住んでいる場所で人を差別するなんて、本当に馬鹿げたことだと思います。大切な人のいる場所が、人にとっての最高の場所ですよ」 「まったくだ」 瞬の言う通りだと、氷河も、今では思っている。 瞬は、練馬区の氷河のマンションに引っ越してきた。 勤め先は、 練馬区の光が丘病院。 最近 頻繁に、千代田区の経済産業省や外務省のお偉方、中央区港区に本社を置く大手総合建設会社の重役たちが、瞬に助言や助力を求めて 練馬区光が丘に 大仰な黒塗りの高級セダンが やってきている。 世界人権宣言 第一条 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」 第二条 「すべて 人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的 もしくは 社会的出身、財産、門地その他の地位 又は これに類する いかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げる すべての権利と自由とを享有することができる」 場所が人の価値を決めるのではなく、人が場所に価値を与えるのだ。 Fin.
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