「僕の心臓、あげられるものなら、あの人の娘さんにあげたいんだけど……」 予後は順調。 ラボ内での事件事故を避けるためにも、瞬は 人の出入りがグラードのラボほど自由ではなく、聖闘士が常駐している城戸邸にいた方がいいだろう。 そういうことで話が決まり、瞬は城戸邸に戻ることになった。 女神アテナのいる城戸邸は、地上世界の最も重要な防衛線であり、最前線でもある。 その城戸邸の庭は、うららかな春の盛りを体現し、ライラックとハナミズキが 互いの花を競い合っていた。 聖闘士など いらないのではないかと思いたくなるような平和で美しい光景、空気。 ラウンジから庭を見詰めていた瞬の独り言めいた呟きを聞き逃さず、氷河は 即座に瞬の言を否定した。 「医者になろうとしている者の言うセリフとも思えんな。あんな狂人の願いが叶ってみろ。世界は、自分と自分の身内さえよければいいと考える殺人者だらけになる」 「うん……それは わかっているんだけど……」 地上世界の平和と そこに生きる多くの人々の命を守るためには、それらを脅かす者たちを倒さなければならず、『人を傷付けたくない』という気持ちを敵にまで適用していたら、地上世界の命運を危うくする。 これまでの幾多の戦いで、それは嫌になるほど“学習”してきた。 だというのに――何度 その冷厳な現実を学習しても――人を傷付けたくないという気持ちは消せないのだ。 それくらいなら、自分が傷付いた方が ずっと楽だと思う。 「僕の心臓で、あの人と あの人の娘さんが幸せになれるなら、僕一人の命が二人の人間を幸せにできるわけで――」 「ふざけるな!」 ライラックの花とハナミズキの花が咲き競う、うららかな春の庭。 咲き競う庭の花がすべて凍りついてしまいそうなほど、冷たく厳しい氷河の怒声に、花より先に 瞬の方が凍りついた。 否、瞬を凍りつかせたのは 氷河の大音声ではなく、花を凍りつかせるような声を響かせた氷河の、冷たく瞬を睨んでいるはずの瞳が 少しも冷たくなかった事実だったかもしれない。 それは、瞳の中で 氷を解かしたように 切なげに温かく揺らいでいた。 「それで、おまえが死んだら、俺が泣くんだ。俺は、おまえに死なれて、泣くのも、腑抜けるのも、生きる気力を失うのも、二度と 御免だ!」 「氷河……」 「あの狂った男以外の すべての人間が おまえが生きていることを望んでいる。だが、もし、世界中の人間が おまえの死を望んでいたとしても、おまえは――おまえは、俺のために生きていなきゃならないんだ! おまえがいないと俺は――俺が寂しくて不幸になるから。おまえが生きていてくれれば、それで 俺は幸せでいられるから。だから、おまえは生きていなきゃならない……!」 「氷河……」 氷河の訴えを ソファで聞いていた星矢は、 「わがままー」 と 氷河の自分勝手に呆れ、同じく氷河の訴えを ソファで聞いていた紫龍は、 「利己主義の極致」 と 氷河の自分勝手に感心した。 星矢が朗笑しながら呆れ、紫龍が苦笑しながら感心した氷河の訴えは、だが、瞬の心を大きく揺さぶったらしい。 「氷河、泣かないで。僕は、氷河とずっと一緒にいる。氷河を一人になんかしない。僕は強い。僕は強いんだ。だから僕は死なない」 泣きそうな目で 瞬を睨みつけている氷河の頬を、瞬が右の手の平で包む。 それでも、瞬を睨む氷河の瞳は 疑い深い子供のそれのようだった。 氷河の疑いを晴らすため、氷河に信頼してもらうため――瞬は強くなるしかなかったのである。 瞬の小宇宙が燃え始める。 「僕は死なない。僕は強いんだ」 復活した瞬の小宇宙は、もしかしたら 以前より強大になっていたかもしれない。 もとい、確かに、以前より強く大きくなっていた。 目の前で 氷河に泣かれてしまったら、瞬は、そうなるしかなかったのだろう。 氷河を泣かせないために、更に強く、更に大きく。 「瞬が、殺しても死なない一輝の弟だってことを忘れてたぜ」 「いや、これは むしろ、さすが氷河と、氷河の力を褒めるべきところだろうな。氷河の我儘の前には、瞬は手もなく屈服するしかなかったんだ」 「は……」 言われてみれば、これは 確かに紫龍の言う通りの状況。 氷河が『俺のためだけに生きていてくれ』と 瞬に我儘を言い、瞬が その我儘に逆らえなかった図だった。 氷河の望みの前には、脳死も、AIも、過去の記憶の有無も、哀れな父親の愚行も、ほぼ無効。 瞬の心は、氷河の望みを最優先するようにできているらしい。 つまり、脳死以前も脳死後も、瞬は何も変わっておらず瞬のまま。氷河も 相変わらず我儘男のままだったのだ。 「これ、あれだろ。瞬、氷河の傍らにいて、すべて 世はこともなし――ってやつ」 Shun is in his heaven All’s right with the world ロバート・ブラウニングの『春の朝』 「ははは。大した詩人だな」 星矢のパロディポエムを、紫龍が酷評してくれた。 Fin.
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