氷河が その少年に好意的でない理由は 単純明快。 これ以上ないほど単純明快だった。 “その少年が ナターシャに好意を抱いているから”。 彼の両親のせいでも、家庭環境のせいでもない。 彼に悪い友だちがいるからでも、先祖同士が犬猿の仲だったからでもない。 もちろん、ちゃんと(?)その少年自身のせい(?)だった。 “その少年が ナターシャに好意を抱いているから”。 公園の ちびっこ広場にやってきたナターシャが その日 最初に遊ぶ遊具を決めて、その遊具の許に駆けていく。 すると、ナターシャがパパと繋いでいた手を離し、パパの側を離れる時を待ちかねていたように、その少年も駆け出す。 少年は、そうして、ナターシャの側に近寄っていき、 「ナターシャちゃん、こんにちは」 と、ナターシャに声を掛けるのだ。 「あのガキは、ナターシャが俺と手を繋いでいる時は、ナターシャの姿に気付いても、絶対に俺たちの側に近寄ってこないんだ。あれはどう考えても、俺の目の届かないところで ナターシャに悪さをすることを企んでいるからだ。そうとしか思えん」 というのが、かなり偏見と独断に満ち満ちた氷河の見解だった。 瞬が、 「子供が子供同士で仲良くなろうとするのは、普通のことでしょう」 となだめても、 「氷河が不愛想な顔をして立ってたら、その子に限らず、大抵の人間は氷河を恐がると思うよ」 と諭しても、氷河は 決して その少年への敵愾心を放棄しようとはしなかった。 要するに 氷河は、その少年が自分の娘に好意を抱いていることが 明確にわかるから、その少年を好きになれないのだ。 それは、“娘を溺愛する父親”の職業病のようなものなのかもしれなかった。 問題の少年は、ナターシャと同い年か、少し年下。 会うのは、ほとんど週末。 平日の午前中に会うことは滅多にないので、おそらく彼は どこかの幼稚園に 通っているのだろう。 ナターシャに 毎日会えるとは限らないからこそ、彼は 会えた時には必ずナターシャに話しかけてくるのだ。 幼いながら、そんな必死さも垣間見える健気な少年を、瞬は、氷河とは逆に、至って 好意的に見ていた。 彼の名前は、カズヒサくん。高遠上久くんといった。 彼は、いつもママと一緒に公園にやって来る。 おそらく、本来は内気で大人しい少年なのだろう。 いかにも いい家のお坊ちゃんといった、人のよさそうな歪みのない顔立ちをしている。 身なりも いつも清潔で綺麗。 しかし、運動神経は あまりよくない。 スカートが広がるのも気にせず 公園内を活発に走り回るナターシャのあとを、気後れしつつ、懸命に追いかけているようなカズヒサくんの恋路は、なかなか険しそうだった。 ナターシャは、友だちがいなくても平気な少女である。 一緒に遊ぶ友だちがいれば 一緒に遊ぶが、一人で遊ぶことを楽しむこともできる。 自分に友だちがいるか いないか、自分が友だちと一緒にいるか いないか。 ナターシャは、そういうことを気にする少女ではない。 ナターシャには、そんなことは大した問題ではないのだ。 パパとマーマがいつも自分を見てくれているから、彼女は そんなことは気にしないし、気にならない。 パパやマーマが よそ見をしていると不安になるが、パパやマーマが自分を見てくれているなら、それで満足。 それ以上は望まない。というより、それ以上はない。 ナターシャは、そういう少女だった。 カズヒサくんに『こんにちは』と挨拶されれば、『こんにちは』と挨拶を返して、一緒に遊ぶ。 しかし、公園でカズヒサくんに会えない日が何日続いても、全く気にしない。 ナターシャにとって、カズヒサくんは そういう友だち――“会えば 仲良く遊ぶが、絶対に必要なわけでもない友だち”なのだろう。 そう、瞬は思っていた。 だから、その日、氷河の出勤後、 「ドーシテ、ナターシャは カズヒサくんとオハナシしちゃいけないのカナ?」 不安そうな目をしたナターシャに そう尋ねられた時、瞬は少し意外の感を抱いたのである。 もしカズヒサくんと“オハナシしちゃいけない”状況の中に置かれたら、ナターシャは それでも平気でいるだろうと、瞬は思っていたから。 その推測が外れたことを、瞬は、カズヒサくんのために喜んだ。 それは さておき。 『ナターシャは カズヒサくんとオハナシしちゃいけない』という考えは、どこから湧いてきたものなのだろう。 ナターシャが、そんな卑屈なことを自分で思いつくとは思えないので、それは 誰かがナターシャに吹き込んだ考えだと考えるのが妥当である。 しかし、誰が ナターシャに そんなことを言うだろう。 普通に考えたら、容疑者の最右翼は、愛娘の好意を得ようと頑張る少年を疎んじる氷河なのだが、そんな理不尽な接近禁止令を発令することは、最も氷河らしくない振舞いでもあるのだ。 そんなことをして、ナターシャに嫌われる――とまではいかなくても、『そんなことを言うパパは おかしい』と思われる――かもしれない危険を、氷河は冒さない。 彼は、いつもナターシャのカッコいい正義の味方のパパでいたいから。 そしてまた、彼自身が常に瞬の兄によって 自らの恋路を邪魔され、その理不尽に憤っているから。 瞬の兄を煙たく思っている氷河が、親族の特権を振りかざして人の恋路を邪魔するという、まさに一輝と同じ振舞いに及ぶことは 極めて考えにくかった。 では、いったい誰が。 「ナターシャちゃんに、そんなことを言う人がいたの?」 瞬が尋ねると、ナターシャは、僅かに口を尖らせて頷いた。 『意外や』というべきか、『やはり』というべきか、ナターシャにカズヒサくんとの会話を禁じたのは、ナターシャの焼きもち焼きのパパではなかった。 そうではなく―― ナターシャに カズヒサくんとのオハナシを禁じたのは、なんとカズヒサくんのママだったのだ。 ナターシャは、今日も いつものようにパパと一緒に公園に出掛けていった。 ナターシャが パパと繋いでいた手を解いて、ちびっこ広場のターザンロープの順番待ちの列に並ぶと、これまた いつも通り、カズヒサくんが やってきて、ナターシャの後ろに並ぶ。 自分の順番を待ちながら、二人は、ターザンロープを よりスリリングに楽しむ方法について、“オハナシ”を始めたらしい。 ところが、そこに前触れもなく、カズヒサくんのママがやってきて、 「その子と お話しちゃダメッ!」 と怒鳴り、和気藹々とオハナシをしていた二人を引き離した――というのだ。 眉を吊り上げた鬼のように険しい形相、刺々しい口調。 ナターシャは、公園でも公園以外の場所でも、そんな大人に接したことがなかった。 思いがけない展開に驚いたナターシャが、身じろぎもできずに その場に突っ立っていると、カズヒサくんのママは、カズヒサくんの手を掴んで、彼をターザンロープ待ちの列から引きずり出し、そのまま ちびっこ広場の外にまで引きずっていってしまったのだそうだった。 『ナターシャちゃん!』 カズヒサくんは、悲しげな声で ナターシャの名前を呼び、もっとずっとナターシャと一緒に遊んでいたいと訴えていたのに。 「カズヒサくんのママは、カズヒサくんに あんな乱暴しちゃいけなかったと、ナターシャは思うノ。カズヒサくんは、何も悪いことしてなかったし、もっとナターシャと一緒に遊んでいたそうだったんだカラ」 「そんなことがあったの……」 これは いわゆるロミオとジュリエット現象。 第三者に引き離されることによって、ナターシャは、これまでは“いたいなら、側にいてもいい。でも、側にいなくても全然平気”だったカズヒサくんと 引き離されたくないと思うようになったのだ。 同時に、なぜ自分はカズヒサくんとオハナシしては駄目なのか、本当に 自分はカズヒサくんとオハナシしてはならないのか、不安になってしまったようだった。 「何か大切な ご用事があって、急いで おうちに帰らなきゃならなくなったんじゃないかな。ナターシャちゃんもカズヒサくんも、誰かとお話をしちゃ駄目なんてことはないよ。ナターシャちゃんは、大統領とでも、総理大臣とでも、王様とでも、女王様とでも、お話していいんだよ」 「ナターシャは、女神様ともオハナシできるヨ!」 「その通りだよ」 瞬が微笑むと、ナターシャは それで納得したらしい。 否、むしろナターシャは、自分が誰かとオハナシをしてはならない人間ではないことに 安心したようだった。 |