公園には、ナターシャは連れていかなかった。 大人の話を聞かせないために、ナターシャは 紫龍と春麗に預かってもらった。 本当は、ナターシャには 家で 氷河と留守番をしていてもらうつもりだったのだが、氷河が瞬と一緒に行くと言って譲らなかったのだ。 「きっと、パパは、マーマと二人でデートしたいんダヨ!」 ナターシャは 妙に嬉しそうにそう言って、紫龍の家に行くことを了承。瞬は氷河と二人で公園に向かうことになったのである。 氷河が来ると 事態がややこしくなるだけ――という懸念を、瞬は どうしても振り払えなかったのであるが。 公園には、カズヒサくんと彼のママが来ていた。 氷河の隣りにナターシャがいないことに気付いたカズヒサくんが、がっかりして、いっぱしの大人のような消沈の溜め息をつく。 ナターシャが一緒に来ていても、カズヒサくんがナターシャと一緒に遊ぶことができたかどうかは、甚だ疑わしい。 しかし、カズヒサくんは、ナターシャの姿を見ることすらできないのが、まず つらかったらしい。 しょんぼりしたカズヒサくんの様子に、瞬の胸は痛んだ。 だが、だからこそ、光が丘公園の幼いロミオとジュリエットのために、瞬は、カズヒサくんのママの側に近付いていったのである。 氷河が、瞬の少し後ろから、まさに“つかず離れず”の絶妙の距離を置いて、ついてきた。 「いつも娘が カズヒサくんと仲良くしていただいています。どうもありがとうございます」 自分は命にかかわる深刻な病に侵されているのではないかという不安に おののいている患者を安心させる時の表情で、瞬は カズヒサくんのママに丁寧な挨拶と会釈をした。 顔は、互いに見知っている。 会釈を交わす程度のことは、これまで2、3度あった。 だが、カズヒサくんのママは 大抵は他のママ友と一緒におり、瞬は氷河と一緒のことが多かったので、実際に 言葉を交わすのは これが初めて。 本音を言えば、ママ友集団の中心にいることの多いカズヒサくんのママは、瞬にとっても“何が何でも親しくなりたい相手”ではなかったのだ。 「先週、カズヒサくんが娘と遊んでいた時に、突然 お母様がカズヒサくんをつれて お帰りになったとか。娘が何か粗相をしてしまったのではないかと心配になりまして」 瞬がナターシャを公園に連れていかなかったのは、どう考えても ナターシャに非はないのに、ナターシャに不都合があったのかと尋ねなければならないから。 それは、人間関係を円滑に保つための一種の社交辞令だが、ナターシャの前で その質問をするのは、瞬にははばかられたのだ。 自分はマーマに信じてもらえていないのだと誤解して、ナターシャが傷付くかもしれないから。 もちろん ナターシャには どんな不都合もなく、どんな粗相もしていないのだから、カズヒサくんのママは、ナターシャの父親の交友関係に不安を抱いていることを匂わせてくるだろう。 そうなったら瞬は、彼女に蘭子の人柄を説明し、蘭子への偏見を捨ててもらうつもりだった。 その際には、教師、警官という蘭子の前職が 効力を発揮するはず。 瞬は、そう考えていたのである。 ところが、カズヒサくんのママは、そこで突然、(瞬にとっては)全く突拍子のないことを意気揚々と語り出したのである。 瞬にとっては、全く突拍子のないこと。 それは、 「あの子の父は、東大法学部を出て、経済産業省に入省。先日、製造産業局の局長に就任したエリートなんですよ」 というものだった。 それが、3、4歳の幼い男女の交友に どういう支障をきたすというのか。 瞬は一瞬、自分の国語力――特に、文脈を読む力の欠落を案じてしまったのである。 「はあ」 今まで生きて来た中で、ベスト3(ワースト3)に入るくらい見事に間の抜けた相槌。 だが、他に どんな対応ができたというのか。 それなりに熟考しても、瞬にはわからなかったのである。 瞬にわからないことを、カズヒサくんのママが教えてくれた。 「つまり、カズヒサの父は、家族にも品位が求められる立場の人間だということです。スキャンダルはご法度。倫理道徳に反する行為も、極力 避けなければなりません。滅多なご家庭と交流を持って、それが彼の栄達の支障になり、彼の名誉を汚すものになったら、取り返しがつかないんです」 「……」 カズヒサくんのママの懇切丁寧な解説は、瞬から『はあ』を言う気力すらも奪い去った。 言葉もないとは、このことである。 瞬が黙ってしまったので、代わりに氷河が(かなり不本意そうに)口を開く。 「ナターシャは、エリートのおっさんと一緒に遊びたいわけじゃない。東大出のエリートは、あんたのダンナで、あんたでも あんたの子供でもない。滅多な家庭だと? そんな 訳のわからないことを偉そうに言ってのける あんたは どれほどのものだというんだ。何の権利があって、俺の家族を貶める!」 「何の権利って――私はカズヒサの母親で、夫の地位と立場にふさわしい家庭を築き守る義務がある女家長ですよ。息子を名門学府に入学させる義務も負っている。底辺の下流の――いいえ、下等な家庭の人間と一緒にいるうちに、カズヒサが下品な言葉を覚えて 口にするようなことにでもなったら大変だわ。夫のためにも 息子の将来のためにも、私は私の息子が 下等な家の子供と接触することをやめさせる義務があるんです!」 恐いもの知らずとは、彼女のことである。 彼女は、高級官僚の夫の力が、どんな脅威からも自分を守ってくれると信じているようだった。 「下等?」 氷河の こめかみが、ぴくりと引きつる。 カズヒサくんのママが “下等”呼ばわりしたのが氷河一人だけだったなら、彼は そんなことに いちいち腹を立てたりしなかっただろう。 彼女が“下等”の中にナターシャを含めたから、氷河は黙っていられなくなったのだ。 「日本国憲法では、日本国民は すべて法の下に平等――ではなかったか。公僕の細君が、こんな権威主義者の身分制肯定者でいいのか」 夫の地位という個人の特定が可能な個人情報を 自ら開示したあとで、その妻が憲法に背く思想の持主であることを公表することは、それこそエリートの夫君の栄達の妨げになる行為である。 氷河の指摘に、カズヒサくんのママは、さすがに一瞬 たじろいだ。 彼女をやりこめても問題が解決するわけではないことを知っている瞬が、ナターシャを侮辱されて怒り心頭に発している氷河を なだめる作業に取り掛かる。 「でも、氷河。この方自身は公務員ではないんだし」 「しかし、日本国民だろう」 「確かに彼女の考え方には少々 問題があるけど」 「少々? 何が少々だ。大いに問題ありだ! ナターシャを下等だと!」 自分で その言葉を口にして、氷河は、ナターシャを貶めた人物への怒りを新たにすることになったらしい。 氷河の口調は、ナターシャを下等呼ばわりした者を、もはや人間とは思っていない人間のそれだった。 「で、ナターシャを そんなふうに言える この女は何様。どれほどの者なんだ」 それは瞬にも わからない。 彼女が 自分を何者だと思って、他人を下等と言い切るのか。 氷河と共に 彼女の答えを待つことになった瞬に、彼女から手渡された答え。 彼女は何様で、どれほどのものなのか。 それは、 「専業主婦よ!」 というものだった。 今回、 「はあ?」 を口にしたのは、瞬ではなく氷河だった。 兼業主夫の氷河は、彼女が専業主婦という身分を“専業主婦様”くらいに考えているらしいことに混乱せざるを得なかったのだ。 「瞬。もしかして、ここは笑うところか?」 そんなことを言われても、彼女の発言の意図は 瞬にも よくわからなかった。 自信なさそうに、自分なりの仮説を立ててみる。 「僕にも よくわからないけど、それはつまり、共働きをしていなくても生活が立ち行くということで――専業主婦をしていられるということは、彼女にとっては、人に誇れることなんじゃないのかな」 「……そういう考え方もあるわけか。なるほど」 価値観の違う人間の考え方が 理解でき(たような気にな)ることは、時に ある種の感動をもたらすものである。 氷河は、目からウロコが一枚 落ちたような顔で、仮説の形をした瞬の解説に感心した。 「美しさが何よりものを言う世界、強さが何よりものを言う世界だってあるでしょう。そんなに奇矯な考え方じゃないのかもしれないよ」 「しかし、配偶者がおエライさんでも、この女自身は優雅な専業主婦にすぎないんだろう? 掃除洗濯はともかく、料理は俺の方が上手いだろうし」 氷河は既に、カズヒサくんのママへの怒りは忘れてしまったようだった。 彼女は 本気で腹を立てるほどの相手ではないと気付いて。 氷河の声や言葉に緊張は感じられず、むしろ緩みまくり。 下等な氷河に軽んじられていることに立腹することになったのは、今度は もちろんカズヒサくんのママである。 彼女は、その場で もう一度、カズヒサくんに ナターシャと遊んではならない旨を厳命し、退場。 その後 どうやら、光が丘公園ちびっこ広場を活動拠点にしているママ友たちに、子供をナターシャと遊ばせないように指示する通達を発信したらしい。 いわゆる、ナターシャ仲間外れ令である。 翌日から、光が丘公園ちびっこ広場で ナターシャに近付く子供は、見事に一人もいなくなった。 が、ナターシャは もともと、友だちよりも パパとマーマ重視。 世界一カッコよくて優しいパパと 世界一 綺麗で賢いマーマが 自分を見ていてくれれば、それで満足な少女。 ナターシャは、自分が公園で 仲間外れにされていることに、そもそも気付きもしなかった。 そして、氷河と瞬も、ママ友を欲しているわけではない。 そういうわけで、カズヒサくんのママの ナターシャ仲間外れ令は さほど効果を発揮せず、ただカズヒサくんの恋を妨げ、彼の胸を傷付けることにのみ役立つことになったのである。 |